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あべのハルカス美術館開館10周年記念 円空-旅して、彫って、祈って-

あべのハルカス美術館開館10周年記念 円空-旅して、彫って、祈って-

あべのハルカス美術館|大阪府

開催期間:

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荒々しい彫りにパワーを貰い、たたえるほほえみに癒される

ほほえみの神仏像を日本の各所に残したと聞く円空の展覧会と言うことで、とても楽しみにしていました。期待通りの見応えある展覧会です。

[みどころ](チラシにもある通り)
1. 絵金展と同様にあべのハルカス美術館の単館開催です。巡回はありません。
2. 初期から晩年まで、小指ほどの木端仏、小さなものから2mを超えてコチラに迫ってくるような大作まで、76件160体の円空仏が揃います。
3. 「円空さん」(きっと親しみを込めてそう呼ばれていたであろう)の生涯を伝える絵画や文書、書籍を含めて、その人となりをたどります。

展覧会は、ほぼ時系列に5章構成です。
円空(1632-1695)は、17世紀の江戸時代の修験僧です。壬申年(寛永9(1632))美濃国で生まれたと自分で記しているそうですが、彼の生涯について同時代資料が残っていません。修験僧であった円空は各地を遊行し、神仏を彫り、祈りました。神仏を彫ることも修行の1つでした。生涯に12000体の仏像を彫ると誓ったと言われる円空、現在も5000体以上の円空仏が確認されています。像の背面には円空自身の墨書があり、像をみれば、それが円空を語り、その時の円空さん自身だったのではないでしょうか。。

幼い頃に出家したました。今日伝わるもっとも古い作品は寛文3年(1663)、数え年32歳のときに彫ったものとされています。最初期の円空仏は素直で丁寧な彫りの仏様です。美濃を離れ、東北や北海道へも旅をし、200年後、北海道の名付け親である松浦武四郎の『東蝦夷日誌》にも円空仏について記されています。
寛文11年(1671)円空は法隆寺により、『法相中宗血脈》を授けられます。その写しが展示され、その中には無著世親、玄奘、行基、良弁の名もあり、円空がその法系に連なることが認められたことを表しています。円空の彫り様は一彫り、一彫りじっくり丁寧にすべすべと造形することからゴツゴツと大胆な彫りへと変化していきます。

三重県少林寺蔵《護法神像》と《観音菩薩立像》、目が点になってその場に釘付けになりました。。手にした材の中に既に彫られるべき像があり、顔とおぼしきものは作るが、最小限の手を貸しているだけ。彫刻家からもよく聴きますよね。彫るべきものは目の前の材の中に既にあると。
修験僧の円空は、修験道の聖地とも言うべき奈良吉野の大峰山・笙の窟で越冬参籠も修めます。修験道の開祖と言われる役行者像も円空はたくさん残しています。越冬参籠の時の作である(背面の墨書から分かる)《役行者倚像》、極寒の環境下で製作した行者のお顔がどう見ても歯を剥き出しにして口を開いて笑っているように見えるのです。

伊勢志摩では、その地に伝わる大般若経を補修し、巻子を折本に改装して見返し絵を柔らかなタッチで円空が描きくわえています。蓮弁に人が載った(それは円空ではないのか?)意匠の印が捺されていることにもお見逃しなく。

昭和47年(1972)に愛知県荒子観音寺の多宝塔内から厨子に納められた状態で発見された1024体の小像、厨子に記された墨書から《千面菩薩像》と称されています。厨子背面に円空は「朽ちた流木からも子守の神を彫る」という意の和歌を記しています。小さな千面菩薩たちは、他の像を彫ってできた木端の様な材に目鼻と手なのか衣紋なのか最小限の表現を刻んでいます。手数を少なくして、ドンドン彫り進めないと12000体をには達しないとも考えていたかもしれません。

延宝7年(1679)、48歳円空は『円空の彫る像は仏そのものである』との白山神の宣託を聴き、仏像制作へのモチベーションがさらに上がったでしょう。「これでよかったんだ」と確信したでしょう。この年の7月5日には滋賀県園城寺において尊栄から「仏性常住金剛宝戒相承血脈」を授けられ天台宗寺門派の法を継ぐ僧であることを認められます。

栃木県清瀧寺蔵《不動明王及び二童子像》憤怒の不動明王のお顔はまるで飛鳥仏のように柔和な表情です。背負う火焔光背は木を割った自然木そのままに不動明王像の半分を占め一体化しています。三尊とも背面は粗く削られただけの半面像、右手を胸前に挙げて施無畏印を結ぶ像と同様に矜羯羅童子はコチラに向かってハーイ!と合図しているようにも見えてしまうのです。

人を疑うことを知らないと伝えられる飛騨千光寺の住職舜乗の人となりにも惹かれてか、意気投合した円空はしばしここに滞在し、多くの像を残しました。円空のもっとも充実した時期でした。
展覧会のメインヴィジュアルとなっている《両面宿儺坐像》(岐阜県千光寺蔵)、『日本書紀』にも載る1つの胴体に2つの顔を持つ異形の像「両面宿儺像」を円空は両面にある顔の背面の武人の顔を肩の背後から出して正面から見えるようにしています。斧を手に、光背はグリグリ文のようで、ノミ跡荒く仕上げています。
その後ろにずらりと並ぶ《観音三十三応現身立像》近隣の村人が病気の折に借り出して平癒を祈ったそうです。村人のすぐそばに円空仏があったことが分かります。

《賓頭盧尊者坐像》は、「撫で仏」長年患った所を撫でられてツルツルテカテカになっています。

円空は和歌を詠い、神仏像を彫る思いも読んでいます。「歌聖」と称された万葉歌人柿本人麻呂像も各地に残しているそうです。

最後の章は円空最後の10年です。
元禄2年(1689)円空が再興した弥勒寺が天台宗寺門派の末寺に加わることを園城寺から許されます。その翌年に制作した岐阜県桂峯寺蔵《十一面観音菩薩及び両脇侍立像》の冠を被る《今上皇帝立像》の背面には「當国万仏十マ仏作也」と墨書が記され、12万仏を造ると誓った内の10万仏を達成したことを記したとの説もあるそうです。この時代の人の事なので日々記録として何体を仕上げたと手元でメモを残してきたのかもしれません。
本展最後は、岐阜県・高賀神社蔵《十一面観音菩薩及び両脇侍立像》は現存する円空仏の最後のものです。穏やかな優しいお顔です。諸々の事を黙ってニコニコしながら聴いて下さりそう。一本の丸太を3つに割り、十一面観音立像の台の上に善女龍王像と善財童子像を載せて彫刻面を合わせると元の丸太が復元できるのだそうです。円空晩年の到達点です。
元禄8年(1695)64歳の円空は弥勒寺を弟子に譲り、弥勒寺の傍らを流れる長良川の岸辺で亡くなったと伝えられています。

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