決定版! 女性画家たちの大阪
大阪中之島美術館|大阪府
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裾野が広かった大阪の女性日本画家たち
「女絵師女うたびとなど多く 浪華は春も早く来るらし」 吉井勇
明治から大正、昭和にかけて活躍した大阪ゆかりの女性日本画家の展覧会です。
展示される女性日本画家は、59名、出品作品点数は186点(通期:85点、前期49点、後期52点)、特別展示として着物前後期で2点、写真、褒状、雑誌、絵葉書、羽子板、団扇、書状などの関連資料によって近代大坂の女性日本画家とその作品を紹介しています。
大阪中之島美術館で今年初めに開催された「大阪の日本画」展は、東京にも巡回し、大阪にはこんなにも多くの女性日本画家が活躍していたのかと驚かれた方も少なくないはず。「大阪の日本画」展の出品作家66名の内、女性は13名、人物画、風俗画、文人画など多様な分野で女性画家たちが活躍していました。
近代の日本画は、官展(文展、帝展)での入選回数と入賞歴が画家評価の基準の一つとなっていました。女性画家にとっては社会に認められる場ともなっていました。1907年~1932年の女性画家の官展入選率は、全体の4%(男性画家が大半でした)、女性画家の中で、三都(東京、京都、大阪)の入選率はほぼ互角です。大正時代に限ると、大阪の女性画家は、「入選回数」「入選作家数」の両方で三都の中で大阪が1位と一番多くの女性画家が活躍していたことが数字的にも表れています。
本展は、5章構成となっており、第1,2,5章は人物画、3,4章は文人画(南画)、花鳥画、風俗画を展示しています。
担当は、長くこのテーマを研究してこられた大阪中之島美術館の小川知子研究副主幹です。タイトルに「決定版!」とあるのは現時点でということですが、この大きな括りでの展覧会はこれが最後(小川さん担当としてはかも)となるかもしれないとの事でした。本展で作品が紹介された画家には、詳細がまだ分かっていない画家や本展で判明した画家もありますが、展示作品の7割以上に作風や制作意図の解説があり、小川さんの思いが伝わってきました。
第1章は大阪の女性日本画家たち活躍のパイオニアであった島成園について代表作と共に展示されています。島成園(1892-1970)は、図案家の兄、島御風の仕事の手伝いをしながら絵を独習し、大阪画壇を代表する北野恒富などの画家とも交友関係にありました。つまり誰かを師として絵を習ったわけではなかった。大正元年(1912)二十歳の年に《宗右衛門町の夕》が第6回文部省美術展覧会に入選して、文展で華々しいデビューを果たします。京都の上村松園、東京の池田焦園、と共に「三都の三園」と称され、大正という新しい時代を迎え、新聞や雑誌などのメディアでも全国的に報じられることとなり、「女性画家」という存在は、美術界だけでなく、社会一般からも関心を寄せられるようになりました。
文展での褒状も展示され、審査員には川合玉堂、横山大観、竹内栖鳳、山元春挙、今尾景年などが名を連ねています。
島成園は、美人画だけを描いていたわけではありません。
第7回文展 褒状受賞作《祭りのよそおい》では、愛らしい少女たちを描きながらもその中に経済的格差を示唆し、文展の女性画に社会性を持ち込みました。
《無題》は、成園に痣はありませんが、「自画像」です。一人の画家としてよりも若い女性画家であることに注目されることへの葛藤をこの作品に込めているかのようです。第2回帝展入選作《伽羅の薫》もかなり攻めた作品です。品格ある美人画を描き続けた松園は、太夫を描かなかったそうですが(松園の京女の矜持も窺える気もします)、成園の母は遊郭の大茶屋の娘で、太夫は決して遠い存在ではありませんでした。成園によれば《伽羅の薫》で、年増の太夫の「傷ましい濃絶さ」を表現したそうです。図録には「成園は太夫の姿態は細長くデフォルメして描き、モノクロ主体のビアズリーの世紀末美術の世界を赤と黒、白、金の強烈な色彩の対比の中で描いた」と書かれています。ビアズリーの影響を受けているのか!
勿論、これらの作品に対しても心無い批判は寄せられたのでしたが、それも承知の上で描いたのでしょう。
この後縁談を受け入れた頃より、成園は思うように制作が出来なくなっていきました。海外生活で本格的に絵を残したのは上海だけだったそうですが、異国情緒ある作品の色彩の美しさに惹かれました。成園は、銀行員の夫の転勤に伴って国内外を転々とし、第二次世界大戦後大阪へ戻り、晩年まで小品を描きました。結婚、家庭生活と創作へのモチベーションの難しさを思いやらずにはいられません。画家としては残念な事ではありましたが、人生として経済的にも安定した穏やかな日々もそれはそれで納得できいます。二十歳で文展入賞した島成園は、女性たちの憧れとなり、絵筆を持つ女性たちが彼女の元へ集まりました。多くの門下生を輩出した島松園はまだ20代で慣れない画塾経営も容易くはなかったでしょう。
20代前半で文展に入選した岡本更園、木谷千種(旧姓・吉岡)、松本華羊と成園の4人で、井原西鶴の『好色五人女』を研究し、市井の女性たちの恋物語を大正5年にその成果として「女四人の会」で発表しました。大正5年大坂三越での「女四人の会」の写真も展示されていますが、写真を見ての通り、見目も端麗な若い女性画家4人は、アイドル的な人気も集めることとなったそうです。一方「若い女性による生意気な行動だ」となんとも理不尽な腹立たしい批判もありました。
木谷千種は、幼くして母と死別し、父親について10代前半に渡米して現地の小学校に通いました。所謂「帰国子女」です。東京の池田焦園塾で学び、北野恒富や菊池啓月にも師事しました。近松研究家と結婚して、知識や興味、仕事の幅も広がり夫婦協働の仕事も残しています。画塾「八千草会」を設立し、多くの後進を育て、画家としても官展、本の装幀や挿絵など幅広い分野で長く活躍しました。結婚後も活躍し続けた木谷千種、結婚相手、夫との相性、千種の気質など諸々関係しているように思います。
木谷千種と共に池田焦園門下でもあった松本華羊の代表作《殉教(伴天連お春》福富太郎コレクションと言うことにも納得の作品です。第12回文展落選作ですが、展覧会での入落は時代背景や審査員にも大きく左右されるのではないでしょうか。
南画は古くから女性画家が活躍し、跡見学校を開校した跡見花蹊や女性初の帝室技芸員となった野口小蘋の後、河邊青蘭が近代大坂を代表する南画女性画家となり、「大正十四年画家所得一覧」では土田麦僊や上村松園を凌ぐほどで人気があったようです。詩書画一体の南画(文人画)は、漢学の素養が必要とされ、それなりの教養を身につけられる環境や女性の南画家を受け入れる環境が当時の大坂にはあったようです。文人趣味の流行も背景にあったと考えられますが、鑑賞する側にもそれなりの教養が要求されそうです。
三幅の掛軸いっぱいに描かれた色鮮やかな花々波多野華涯《西洋草花図》にわぁーとなりました。
生田花朝は、師 菅楯彦に倣い生涯大阪の歴史や風俗を描き続けました。官展初入選は、大正14年(1925)36歳です。翌第7回帝展で女性として初めの特選となりました。花朝が原画を描いた四天王寺の団扇も興味深く眺めました。
第5章では、近代日本美術の歴史の中に足跡を残した大阪の女性日本画家たちを一人でも多く紹介したいとの思いも伝わりました。5章に限って撮影OKです。
島成園の画塾の門下生たちは「成」の字を雅号に、木谷千種の「八千草会」の多くは「千」の字を雅号に授かって制作しました。北野恒富の画塾「白耀社」でも多くの女性が学びました。当時の商都として繁栄した大阪では、裕福な商家の子女がお稽古ごとの一つとして日本画を習いました。大阪の女性日本画家には、このように稽古ごとから出発した人と島成園の様に家業を手伝い職業画家を志した人が居ました。
秋田成香《ある夜》は、大阪中之島美術館寄託作品として103年ぶりに公開された作品で、昭和以降の活動が把握できていない成香の現存する作品の中での代表作です。
西口喜代子《淀殿》落款以外に手掛かりがなかった画家で、八千草会展出品作品作家の中に「喜代子」という名前が見つかり、現存する塾展の目録に掲載された作品の作風との親和性が高いことから、西口喜代子の作品として展示された屏風です。
音声ガイドは、大阪出身の木南晴夏さん。ネイティヴイントネーションの木南晴夏さんの落ち着いた語り口がとても良かったです。
三露千鈴の《殉教者の娘》(後期展示)「大阪の日本画」展の際もとても印象に残りました。船場の裕福な商家の娘であった三露千鈴は、母や妹とともに木谷千種の画塾に通っていました。《秋の一日》を描いた数か月後に22歳で亡くなってしまいます。最期まで絵筆を持っていたのかその指先に絵具がついたままだったと音声ガイドから聴こえて思わず涙が溢れました。後期展示に三露千鈴の《化粧》が展示されます。画像を見る限りとってもとっても可愛らしい作品なのでとても楽しみです。
本展を通して、当時の女性画家が絵を描き続ける難しさも感じました。家庭や介護の後70代にしてに大きく羽ばたいた女性画家も少なくありません。シングルマザーであった松園は、画壇でも特別な存在であったし、母の存在亡くしては彼女の画家人生はもっと困難なものになっていたかもしれません。
現在流布している大阪とは全く別の「大大阪時代」、谷崎の「細雪」の中にあるような「古き良き大阪」がここにありました。
大坂の女性日本画家とその作品を丁寧に追いながら明らかにし、近代日本美術の歴史の中に正しく位置づけようとするお薦めの展覧会です。
※この鑑賞レポートは、本展図録を参考にしました。
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- BY morinousagisan