ニューミューテーション#6 井上裕加里 ソー・ソウエン 高田マル「ふるえのゆくえ」
京都芸術センター|京都府
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ふるえのひびき
映画に行くつもりだったのに開始時間を2時間まちがえて遅刻し観るのを諦めた。代わりに映画の空き時間に行くつもりだった京都芸術センターに行くことにした。結果的には、映像作品、インスタレーションの鑑賞時間を合わせると1時間くらいになったので、映画のついでに行かなくてちょうどよかったかもしれない。
京都芸術センターは建物全体が展示会場なので注意しないといけない。「包摂とL」では入口に展示してあった水木塁の作品を見逃していた。建物入口の外にある二宮金次郎像にマフラーをかけてあるのは展示と関係なさそうだ。
まず真っ直ぐ進んでギャラリー南へ。ソー・ソウエン「声を絶やすな」。部屋の中心にサーモンピンクの円形のカーペットが敷かれていて、その周りを8個のスピーカーがぐるっと取り囲んでいる。スピーカーからはワークショップに参加した15名の声が流れてくる。
参加者たちは、
――「こんな世界であってほしい」と願いながら、空気を震わすこと。
――言語以前の声(母音やハミング)を用いること。
――常に二人以上が発声し、和声を絶やさないこと。
――他者の声をよく聴くこと。
――自分の声をよく聞くこと。
という条件で10分間声を出し続ける。
最初はカーペットの外側に立って聞いていたが、スピーカーは全てカーペットの中心を向いている。場所によって聞こえ方って変わってくるよなと思い、靴を脱いでカーペットの真ん中に立った。スピーカーに取り囲まれるのは不思議な感覚。前半は合唱の発声練習みたいな声が一斉に聞こえてくるが、後半は声の種類や長さがばらばらになる。「こんな世界であってほしい」と願って出しているはずの声なのに、叫び声みたいな大声が聞こえたりする。が、優しい言い方でも口当たりだけいい内容だったり、耳をふさぎたくなるような言い方でも大切な内容だったりするので、大事なのはどんな言い方でも耳を傾けることなのかなと思う。
声がいったん途切れてまた始まったので一周したのかなと思い、カーペットの外に出ていたがせっかくなので再びカーペットの中心に立つ。
カーペットの上にはビーズクッションが5つ置かれていて使っていいのか迷っていると、そういえばスピーカーは1mくらいの高さなので、ここではその高さで声を聞くことを求められていたのかと気づく。とりあえずカーペットの上にしゃがんで聞くと、更に聞こえ方が変わった。首を動かすだけで聞こえ方が違ってくる。最初は上に書いた通り作品の意味を考えながら鑑賞していたけど、声が脳に響き後頭部が震えてきて、ただただ声を体感するだけになってしまった。現代アートをこんなに感覚的に鑑賞していいのか戸惑った。
ギャラリー南を出てグラウンドへ向かうと、建物の壁には高田マルによるチョークで描かれた作品が。ゴリゴリ音が聞こえるなと思っていたら、地面に置かれたスピーカーから制作時の音が流れていたのだった。
ギャラリー北に入る。井上裕加里「わたし と われわれ の間で」。作者の知人2人から彼らの兵役経験を聞く映像作品。日本にはその制度がないのでぴんと来ないかなと思っていたが、2人が兵役時代に身につけた敬礼、行進を実践する「Bodily Memory」で一気に引き込まれる。2人は軍服ではなく私服なのだが、その動きから軍隊で敬礼、行進を徹底的に叩き込まれたことがうかがえた。戦後の小説で兵隊の動作についてしばしば言及されるわけがわかった。
現代日本でも権力は透明化したうえで人々に及んでいるけれども、軍隊での直接的な権力の行使はさすがのものだった。個人の思考が奪い取られ、他者の命令に行動を支配される。2人とも日本語で語るのだが、日本語の曖昧さが兵役という経験の言語化しづらさをよく表現していた。
支配から解放さえされればそれで終わりのようで、そこにかつての理不尽な苦しさがなかったかのようになる虚しさを感じていたが、支配された経験は残り続けるんだと思った。不均衡な権力関係のもとにあった経験は人と関係を結ぶ中で表面に現れ、形状記憶合金のようにかつての経験をなぞって振る舞ってしまう。いつまでも過去にこだわっているのは嫌になってくるが、支配によってつけられた傷とは一生向き合うのを覚悟しないといけないんだと思う。
今回は3つの映像作品を上映時間が短い順に観たが、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの順で観ていたらどう感じていただろう。
帰りに、入口の自動ドアに描かれた高田マルの作品を見逃していたことに気づいた。
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