特別展 プラカードのために
国立国際美術館|大阪府
開催期間: ~
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わたしのプラカード
「バスを20分以上待たなきゃいけなかったため歩きで行くことにしたが、未だに大阪駅から中之島方面までの道がわからない。バスでいつも通ってるし、中之島から大阪駅まではいつも(帰りのバス停の場所がわからないから)歩いて帰れるのに。Googleに一度もピンとこない道を案内されて辿り着いた。ちょうどバスが発車するくらいの時間だった。
途中入退場禁で上映時間が決まっている作品があったのでそれから観ることにした。
飯山由貴「In-Mates」。地下通路にいる男性が映ったあと、1930年代日本の精神病院に入院していた朝鮮人2人について語られる。地下通路の男性がその朝鮮人たちを「演じる」。男性は看護日誌に記録されていた2人の発言を口にし、歌を歌う。
男性は現代の格好をしているが、それでも患者が憑依しているように見え、当時の患者の格好にしなかったのは、コスプレ感を出さないようにするためだと思った。
現代では、民族とアイデンティティについて多くの人が言及し、一つの問題として確立しているが、当時そういった理解が確立されていなかった中で、それでも患者たちは自身が日本人でも朝鮮人でもないように思い何者なのかについて苦しんでいて、それは痛みがあるのに声が出せないような感じだ。そして現代でもそのように、苦しんでいるのにまだ言語化、問題化されておらず、周囲に理解されない事柄があるはずだと思う。
作品では関東大震災の朝鮮人虐殺の話も触れられていた。誰も過ちの責任を取らないまま、その上に歴史は積み重ねられていく。志賀理江子「風の吹くとき」では、大都市のために電力や食料を供給し搾取され続けてきた東北地方が舞台になっている。たとえ歪んでいてもそれで回っているから歪みの上にそのまま社会が成り立っている。
たとえ間違っていても誰も責任を取らず、歪んでいても反省されることなくそのまま突き進んでいく。それは歴史や社会だけではなく、個人のレベルでもそうだ。過ちや歪みもなく成育していくのは幻想かもしれないが、個人を歪ませた周囲は誰も責任を取ってくれず、歪んだまま大人になっていく。
そういう個人の歴史、歪み、めんどくささに最終的に付き合えるのは家族なのかもしれない、と飯山由貴「あなたの本当の家を探しにいく」を観て思った(同氏の「これは何でも思っていることを書いていいカードです」を見るとそうとは言い切れないけど)。
精神疾患を患う妹が自分の本当の家を探しにいく、と言うのについて夜中に2人で家を出て歩く作品。映像という形式によって2人と伴走しているという感じがしてよかった。ヘッドホンで2人の会話を聞くことによって、私も2人の「家族」になっていく。
現代では病は専門家が治すもの、病院が面倒をみるものになっている。しかし患者その人を一番見てきたのは、その人を形成してきたのはその人の周囲にいた人々である。てなると家族は家族だからという理由でその人の話を聞き、その人に付き合っていかないといけないんじゃないかなと思う。
谷澤紗和子。高村智恵子や宮脇綾子などの先達を追った作品を発表している。現代では作品が現れてもすぐに顧みられなくなり、新しい作品が次々と登場する。一つひとつの作品に時間がもっと必要だと思う」
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