LOVE ファッション―私を着がえるとき
京都国立近代美術館|京都府
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ファッションの恣意性
ずっと楽しみにしていた展覧会で、楽しみすぎて鷲田清一を3冊買い、Alaska Jam「FASHION」、アルカラ「水曜日のマネキンは笑う」、土岐麻子「美しい顔」を当日までずっと聴いていた。
フェルト、ベルベット、オーガンジーから人毛まで、様々な材質の衣服を見ることができた。また、たとえその材料を使おうと思い立ったとしても、それを衣服として実現できる技術がないと成立しない。そう考えると、一着一着の衣服が衣服として成り立っていることは当たり前のことではないのだと感じた。
会場にはそういった技術を尽くした華やかなドレスたちが溢れていたが、いったいこれはどうやって着るんだろうと思った。同行者が学生時代、課題で身体にフィットする衣服を作らなければならなかったが、身体にフィットし過ぎて一人で着れず、皆で着せ合っていたという話をしてくれた。そこまでくるともはやそれは、衣服を着るという作業ではないように思える。Chapter2までがそういうドレスだった分、Chapter3のシンプルなインナーたちが風で踊るように非常に軽やかで、対照の妙を感じた。
しかし、そのような、異様に膨らんだラインを持った衣服たちは、私たちが普段身につける衣服とはかけ離れているように思われるが、我々が機能的だと思っている現代の衣服が普遍的であるわけでもないし、進化の最終形態として最も優れているわけでもない。衣服が身体に対してどのようなラインを持っているか、身体のどこを覆うのかということは恣意的なことなのだ、ということを、アントネッラ・ピエモンテーゼの「涙滴収集器」、ピエール・ドュガンの手袋を見て思った(これらはコレクション展の内容だったが)。前者は顔に巻きつけ両目の下に三角形の布(涙を集める用)がついている装身具で、後者は木箱やカヌー型の木枠を手袋として手に装着するようになっていて、思わず笑ってしまったが、私たちが当たり前だと思っているファッションに様々な可能性を投げかけてくれる展示を見ることができた。会場では、「こんなのいつ着るんだ」、「こんなの着れないよ」と思っていた衣服も、今だんだん着てみたくなっている。
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