
近代日本画の真髄 児玉希望-千変万化、驚異の筆力展
広島県立美術館|広島県
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戦前戦後で別人
昨秋、広島県三次市の「奥田元宋・小由女美術館」に行きました。企画展を見た後、常設展示室で奥田作品を見て回ってたら他作家の作品があり、素晴らしく良い作品でした。それこそが、奥田の師である児玉希望の絵だったのです。
ちょうど同時期に広島県美で児玉展をやってて、未知の作家なれど興味あって行こうと思っていたところ、その作品に初めて出会え、こりゃ間違いないなと日を改めて広島県美へと向かいました。
ちなみに三次までは芸備線というローカル線で広島から片道2時間かけての遠征だったので帰りがけに広島県美に寄る時間はなかったのです。
芸備線で三次に着くちょっと手前に安芸高田市があります。車窓から見る風景は中国山地の盆地みたいなとこで、田園の中にあるこじんまりとした、のどかな町でした。話題の石丸伸二氏の出身地であり最近まで市長をされてたとこです。
そしてそこが児玉希望の生まれ育った場所でもあります。
児玉省三、のちの希望は明治31年に安芸高田に生まれ16歳までを過ごし、代用教員を経て大正4年17歳で実業家or政治家になろうと東京を目指して故郷を出ます。
ところが広島や大阪で上京資金を稼ぐため映画の看板描きのアルバイトをしているうちに絵にハマり、晴れて上京した18才時には画家への道を選んでいました。
20歳で川合玉堂に弟子入り、入門して間もない時期は仏画を描いたり、《静日》のような小野竹喬を思わせる色使いの絵を描いたりしています。
入門後3年目ついにその才能が開花します。弱冠23歳で帝展に初入賞した時、玉堂が「嘘だろ」と言ったそう。
その作品《夏の山》は当展には出ていませんでしたが、同時期の20代前半の作品が福田美や水野美から来ており、選んだ道は大正解、目を見張るその画力には感嘆しました。
広島県美のコレクションでは、八曲一隻の大屏風《晩春》が素晴らしい。希望27歳の作品で、この若さでここまで描ききるかというほど、花樹と渓流が織りなす躍動感あふれる絵は見る者を惹きつけてやみません。
希望の20代はほぼ大正期にあたり、この時期は特に花樹を描いた作品に卓越した画力が現れています。その花というのも、林檎や梨といったあまり取り上げられない花に目を向けているのが良い。《遅日》、《林檎花》で描いたリンゴの花は、善光寺まで出かけてその近くのリンゴの木をひたすら写生して生まれた傑作です。
写生という鍛錬は、著名な日本画家の誰もが重要視しており、その結果は見ての通り。地道な努力は裏切らないということが作品で証明されています。
児玉希望しかり。30代になった昭和の希望は花鳥画において写生で鍛えた腕を如何なく発揮します。栖鳳やその一派が京都市動物園で写生に明け暮れたように、希望は自宅の床下に狐を飼って写生しまくったそう。
その狐が登場する《枯野》は残念ながら展示期に当たらず、図録で見て知ったのですが、これはもう木島櫻谷《寒月》に伍してひけをとらない狐です。
鳥も上手い。鶴、鵜、鷺、梟、七面鳥と、描けぬものなどないと言わんばかりのバードウォッチャーアーティストです。
極めつけが鷲と鷹。《黎明》、《檜鷹図》での猛禽画は、昭和の狩野派かと思わせる見事な大作です。
昨年各地で巡回展のあった石崎光瑤も鳥描きの達人ですが孔雀に特化した感あるのに対し、希望は鳥なら何でもござれ的に描きまくっているのがいいですね。
会場前半は希望が20代~30代の作品が並びます。そしてその若さにして希望ワールドは完成を見たかのように思えます。
これ以上何を描く?どう描く? と、壮年期以降の作品に期待が膨らみます。
ところがそこで戦争が始まってしまい希望の制作活動にも多大な影響を及ぼします。
戦中は「日本美術及工芸統制協会」なる団体のTOPとなって画業以外の仕事に追われます。この団体は大観が会長の「日本美術報国会」と並行して作られた団体で、まあ言わば軍部への協力体制を美術界として担うといった性格を有していました。大観が総裁、希望は幹事長といったとこでしょうか。
戦時下の希望は人物画で実力を発揮しています。松園か清方かと思わせる美人画や靫彦風の武者絵を見ると、この人は何やらせても上手いなあと感心します。悪く言えば器用なんですが。
そして迎えた終戦。今度は軍部協力者バッシングに、大観や藤田と共に晒されます。
それでも何とか持ちこたえ、戦後の美術界を吹き荒れる新潮流の只中にあって画家活動を再開します。
しかしその作風は戦前から一変、挑戦か変革か、はたまた模索か。どうしたんだ児玉希望と言いたくなるほどの変貌ぶり。
戦後まもなくは朦朧体墨絵や新版画的陰影を表した日本画も描いてますが、渡欧して何に目覚めたのかマチスに感化されたような洋画風作品、あるいは先祖返り的な水墨画にまで手を出してます。
フランス展では雪舟山水長巻をセーヌ川沿いの風景にしてみたり、イタリア展に出した等伯パクリはタイトルもまんま《松林》です。
もちろんそれは確信犯的行為であって、西欧に日本画の歴史と伝統を伝えたかったのでしょうし、実際、大絶賛されたみたいですから間違いではなかったのだと思います。帰国して、どうだ日本画は西洋諸国でも十分通用したぞと胸を張った姿も想像できます。
だけど、やっぱりそれは希望が辿ってきた日本画道とは違う。どんな画風もこなせる実力があるのはわかったから、どうか元の王道日本画を描いてほしいと思ったファンはいたはずです。
そして次はとうとう抽象画に手を染めてしまいます。
最初は水墨画から、続いて着色画へと、1960年前後の作品を見てそれが児玉希望作だと思う者はもはや誰もいなかったと思います。
洋画家には具象から抽象へと走る例が多々ありますが、日本画では堂本印象ぐらいしか記憶にありませんでした。
児玉希望も印象に負けず劣らずの大変身画家だと言えます。
当展のサブタイトルは、「千変万化 驚異の筆力展」です。確かにそうですね。良し悪しは別にして。
私は当展会場の前半、戦前作品までを見終えた時点で、こりゃ間違いなく2024年度BEST展候補だと思いましたが、後半の「千変万化」した作品見て、その思いは消し飛んでしまいました。
それでも図録は買いました。そしてその頁をめくっていて、ある作品を見て救われた気持ちになりました。絶筆の《百花百鳥図》です。
ああやはり、児玉希望が描きたかったのはこれなんだと確信しました。
当展に来てなかったのは本当に残念ですが、画業の締めくくりに相応しい花鳥図の大傑作です。
東京日本橋の小津和紙さん所蔵で、未完だそうですが見た目9割がたは完成しています。いつか本物を見てみたいものです。
東京で手軽に希望の大作を見たいなら、上野不忍池弁天堂には龍の天井画があるそうです。