野村得庵 席披茶会の再現 ―神戸棲宜荘・熱海塵外荘—
野村美術館|京都府
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今年の京都の桜はちょっと遅くて
今年の桜は遅くて、まだ咲き初めでしたが、蹴上インクラインに多くの人が歩いているのを見上げながら、いつものように南禅寺の前を通って野村美術館へ。
春季展示前期は、野村得七(得庵)の神戸本邸での大正13年4月1月からお披露目された席披茶会再現、道具組を拝見。神戸本邸があった住吉村、現在の阪急御影です。御影駅南側、現在も残る朝日新聞創業者の村山龍平邸(香雪美術館)のお隣に煉瓦作り(写真が展示されていました)の大きなお屋敷があったそうです。阪急の線路をくぐって北側にお庭が広がっていたようで、地下トンネルで繋がっていたとのこと。この辺り今も高級住宅地ですが、当時は住友財閥の住友さん、倉敷紡績の大原孫三郎さん、鐘紡の武藤さん、安宅産業の安宅さんなどがお住まいで「長者村」と呼ばれていました。納税額も多く、この地に住む実業家がポン!と資金を出し独自のコミュニティを作り、文教地区として成長したようです。「蘇州園」は、かつての日本生命保険弘世助三郎の邸宅跡ではなかったかしら?白鶴美術館すぐ下にある乾汽船の乾邸は、1995年の震災までお住まいだったそうで、現在不定期に公開されています。武田薬品創業家の武田さんのお屋敷は今も残り、そばを通り過ぎる事はできます。(大きなお屋敷通りで昼間でも通りすぎる人は少ないです)この野村本邸は、第二次世界大戦末期の神戸空襲で灰燼となってしまいました。(戦争は、人々の日常も文化も悉く破壊してしまいます)空襲前に本邸の茶道具の一部を京都の別邸、碧雲荘(野村美術館のお隣に建つ)へ移していたため、現在こうして拝見できています。得庵は、1945年の終戦の年の1月、神戸大空襲の前に66歳の生涯を閉じています。
得庵は、神戸本邸を「棲宜荘」と名付けました。訓読みすれば「すみよろし」で「住吉」に通じます。
道具組は、出入りのお蔵番に任せることなく、徳庵が自分で考えていたようで、その時間も楽しかったでしょう。「書院飾」には、五十嵐道甫作《吉野山蒔絵硯箱》から始まります。例年ならこの時期の住吉川も満開の桜だったでしょう。
【懐石】⇒席飾【濃茶席】⇒奥ケース【洋間】⇒棲宜荘・分銅間での【薄茶席】と展示室を回ります。泉屋さんのきれい寂びがお好きな春翠さんとは違って、得庵さんのお道具は「どやぁ」な感じを持っていたのですが、道具茶のコレクションをこれでもかとひけらかすようなお道具組とは違いよく練られたお道具組だったのではないでしょうか。
懐石の《黒地青貝桜蒔絵椀・膳》青貝が効いて超上品にして美しい。洋間に飾られた山本梅逸の《百虫百虫図》は野村美さんでもあまり掛けられる機会がなかったそうです。野村美さんのチケットの図柄になっています。薄茶席の茶碗《刷毛目 銘 四海兄弟》については、野村美さんのYoutubeで解説を視聴していましたので“呼つぎ”のところなどをじっくり拝見したかったのですが、あれは手元に持って裏返しながら拝見してこそその面白味も伝わるのでしょう。《得庵蔵帳》も中央ケースに展示されていました。お道具類を分類して、何冊にも及ぶ蔵帳で、とても興味深く拝見しました。こんな風に管理されていたんだぁと思いを馳せました。
地下展示は「本歌と写し」本歌と写しを並べて展示してみると、写しには写した人の個性も表れなのか、出てしまうのか、しかし素人目にも本歌にはとても及ぶものではなかった。展示室にいらした方が、「そらー本歌はたくさん作った中のたった一つやさかいにな。それに目を付けたコレクターの目もほんまもんやったと言う訳や」と話されていて、「へぇー成程なぁ」とものすごく納得しました。
後期展示は、熱海の別邸「塵外荘」での席披茶会の展示で、こちらも楽しみです。
野村美さんと碧雲荘の間にある疎水側を通って、碧雲荘前の枝垂桜に寄り道して、琵琶湖疎水を眺めながら岡崎へ向かいました。
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- BY morinousagisan