生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ
東京国立近代美術館|東京都
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わだばムナカタにする
2023年は棟方版画と過ごした1年間だった。
というのは、安川電機さんが毎年制作しお得意様に配布している棟方カレンダーを運よく入手でき、我が家の茶の間で月替わりの作品をためつすがめつできたから。
この1年は毎月カレンダーをめくるのが楽しみで楽しみでしょうがなかった。
今は12月、最後の1枚はダルマの絵。両目が入っているのだが、右目の黒目のほうが太線で力強く描かれている。
若くして目を患い左目は失明、右目一つに頼って板を彫り続けた棟方が、頼むから右だけは耐えてくれとの願いがこもっているかのようだ。
今年は棟方生誕120年でもあって、そんな年をこのカレンダーと共に過ごせたのは嬉しく有難いことだった。そして秋には東京で大回顧展にも行けた。
富山、青森と、棟方ゆかりの地を巡回して来た展覧会の締めくくりは東近。11月中旬に上京した日のいの一番にやって来た。
棟方ヒストリーを追って、初期から晩年まであらゆる作品が網羅されたいい展覧会だった。
白と黒の版画も、彩色された版画も、大作も小品も、どれもが THE MUNAKTA'S BANGAだ。
この青森のおっちゃんの作品が、なぜにここまで琴線に触れるのか。
彫刻刀1本で切り拓いた唯一無二の独創性ある作風がその筆頭だろう。しかもそこには何の外連味もない。
ただひたすらに板に向かって彫り続ける姿は、映像が残っていることもあって多くの人の目に焼き付けられ、記憶に刻まれていることだろう。
板に顔を密着し、彫って彫って彫りまくる。まるで何かが憑依したかのように。モチーフにしたのが仏様や神様、和歌や詩歌など、日本人好みだったのもいい。
展覧会にもそんな作品が大集結して棟方ワールドが展開される。
その開眼はおそらく《大和し美し》あたりだろう。
作品に字を彫りこむのもこれが最初で、絵は脇役となり主役の字は荒々しく躍動し、文意が伝わらずとも念を受け止めよと棟方は伝えたかったのだろう。
というより、本当に何かが降りてきて棟方に憑りついたのか。
恐山のイタコはそれを言葉にして口から発するのに対し、棟方には指先から彫刻刀へとその何かが突き動かしていたのだろうか。
《華厳譜》は一転して字を廃し、絵だけの世界。如来から菩薩、海神山神、様々な仏神が毘盧遮那仏を囲む曼荼羅だ。
宗教的な世界ではあるが、そこにはいわゆる「宗教臭さ」はない。そう感じるとしたら、それは見る者の邪心だ。
仏顔との齟齬が一部にあると柳宗悦は指摘し彫り直させたそうだが、余計なお世話だったと思う。
棟方は自分が想像する神様仏様の姿を版画に表したかっただけだ。
破天荒でありながら味があるというのが、棟方版画が民藝派からも歓迎された理由だと思う。
戦前1930年代の作品は連作ものが素晴らしい。《空海頌》、《観音経曼荼羅》、《善知鳥版画巻》、そして《二菩薩釈迦十大弟子》。
どれもが掘り出したら止まらなかったであろう、棟方のバイタリティが画面から感じ取れるシリーズだ。
戦争末期から終戦を経ての約7年間は富山県福光で過ごし、そこでは奔放に描いた絵や書などが多い。
これらはまあ、いわば「下手物」的な作品なのだが、そこにも棟方の人間性というか憎めない人柄が表出しているからこそ今も大事に残っているのだろう。
下手物嫌いな魯山人は、柳や民藝派が大嫌いだったが、棟方とは終生変わらぬ交遊があったというのも頷ける。
戦後の棟方版画は彩色作品や、黒地に白線で刻む作品も増えて、制作範囲をどんどん広げていく。
モチーフには古典や考古、神仏を核としたゆるぎない世界があり、外遊して見て来たものやアイヌなどの民俗文化から着想に至ったものなど多岐にわたる。
さらに、大サイズのいわゆる「会場芸術」的な作品も旺盛な制作意欲をもって発表し続けている。それもまた棟方版画の金字塔だと思う。
「わだばゴッホになる」は「俺はゴッホになる」と訳されるが、ちと違う。
「わだば」は、「俺なら」という意味で、棟方はそんな傲慢な言い方はしていない。
てなわけで、本稿タイトルを訳すと、「私なら棟方にする」。
それは、我が家のささやかな床の間に近現代の美術作品を飾るなら、棟方版画にしたいとの思いだ。
縦長で、ちょうど12枚ある《二菩薩釈迦十大弟子》を軸装し、月替わりで愛でてみたい。
青森の一青年が志高く上京し、彫刻刀1本で日本へ世界へと羽ばたいていったヒストリー。
ほんの一時期ではあったが、棟方と同じ時代を生きられた日本人として誇りに思う。
版画界の大谷翔平みたいな人なのかなあ。