ANDY WARHOL KYOTO/アンディ・ウォーホル・キョウト
京都市京セラ美術館|京都府
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時代と共に生きたウォーホル
ずっと行けずじまいだったが、会期終了間近にようやく滑り込むことができた。
ウォーホルの存在を知ったのは80年代。既にポップアートの旗手として名を馳せ、「これが新しいアートだ」というかのようにキャンベルスープ缶をいくつも並べた絵やド派手に彩られたマリリン・モンローの絵を見た時は強い衝撃を受けた。それは既存の、歴史的評価の高い
アーティストの作品こそがアートだと崇め奉る大衆に対し、「お前たちはアホだ」と愚弄しているようで当時まだ若く、反骨心が強かった自分には痛快だった。
本人もテレビCMに出演したり、ロックスターと共に写真におさまる風貌はトリッキーで、どこか猥雑さを秘め、スポットライトを浴び続け、駆け抜けたイメージが強かった。
しかし、今回彼のアーティストとしての生涯を辿ってみると、それは自身が演じていたキャラクターか、メディアが作り上げた虚像だったのではないかという気がしてくる。
実は時代を敏感に感じ取り、ジャーナリスティックな視点を持つアーティストだったとして、その姿を作品達は浮かび上がらせていた。
初期の頃から広告デザイナーやイラストレーターとして成功していたが、実際の作品を見るとどちらかといえば地味な色づかいで凡庸な印象を受ける。それが後の定番の手法となるシルクスクリーンを手がけてからは、彼が内在していた本来の才能をやっと放出できたのではないかと思わせる。いくつも並べたキャンベルスープ缶も奇抜な色に塗られたマリリンも毛沢東も一見キッチュだが、それらはしっかり当時の時代を映し出している。
大量生産、大量消費、アメリカの抱えていた暴力性、混沌さ、ベトナム戦争、資本主義と社会主義の対立など。
自身の口からは政治的な発言は直接聞いたことはないが、読み取れる確固たるメッセージはそこにある。
展示終盤の「死と惨事」シリーズでは事故現場や電気椅子を描いた作品が並んでおり、故意に粗くプリントし、筋を作ったりとフィルターをかけ仕上げているように見える。事故等の悲惨さを和らげるためとの説もあるが、見えにくくすることで逆に見る側は深く見ようとする、つまり現実をありのままに提示することなく、ものの本質や真実を見る側に探らせようとしているように感じる。「ほら、死は特別なものじゃなく、身近にあるよ」と言わんばかりに。
それらにつなげる形で最後に掲げられているのが、巨大な作品「最期の晩餐」である。作品自体に悲壮さや暗さは感じられないが、自身の死を意識し、主題化していることは自明である。作品を眺めながら、それまでは自分の内面をさらけ出さず、パーソナリティーは謎に包まれていたが、忍び来る死への恐怖の中、敬けんなクリスチャンとしての自分と同性愛者としての間で苦悩する自身の姿を描き、遺したとは皮肉なものだと複雑な思いにさせられた。
本展には大学生位の若者達が多く訪れていた。当方は作品と共に遠い目をして昔を振り返っていたが、彼らにとって「アンディ ウォーホル」とは決して過去の遺物ではなく、インスタ映えするポップ(≠popular)な作品を生み出す「今」に生きるアーティストなのだろうと思いを馳せ、感慨深く会場を後にした。
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- BY springwell21