特別展「非常の常」
国立国際美術館|大阪府
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映像の効用
「非常の常」とは、現代社会では戦争や災害といった非常事態が常態化しているということ。ちょうどGEZANの「東京」を聴いていたら国立国際美術館に到着して、おまけに当日は参院選の日でタイムリーな感じだった。
米田知子。被災地や激戦地だった場所を写真に写した作品。前回の「Undo,Redo わたしは解く、やり直す」と関連させると、どんな傷痕もだんだん見慣れたものになりいつか忘れてしまうのかなと思った。
今回映像作品が多かった。時間も10〜20分くらいのものだったので、観てみる気になった。
袁廣鳴「日常戦争」。何の変哲もない部屋の窓が突如割れ、次々と家具が狙撃され炎上していく。シューティングゲームだと、洋館や廃病院などのおどろおどろしい非日常な空間や、殺風景な市街地のような「戦場」にふさわしい空間で戦闘をするが、日常生活を送る空間が舞台になっているのが、銃撃に対する生々しさをいっそう強いものに感じさせた。作品は室内しか映さないが、部屋のTVには実際の「戦場」の光景が映し出されている。現代では戦場とならない国から戦闘地域へ向かって遠隔操作で空爆を行うことができる。そういう安全地帯から敵地を攻撃している兵士の部屋がこうなっているのかもしれないと、ゲームのような戦争の中継映像を見て思った。
同じく袁廣鳴「エネルギーの風景」。原発とそのそばにあるビーチや学校を淡々と映した作品。上の「日常戦争」の隣で流されることによって、不穏さが増していた。
シプリアン・ガイヤール「Artefacts」。イラク戦争を経て廃墟と化したバビロンの遺跡を映したもの。今まで映像作品は鑑賞時間を縛りつけられるから苦手だと思っていたが、逆に言うと一定時間立ち止まらざるを得ないわけで、それによって最初わからなかったものがだんだんわかってきたり、鑑賞するうちに最初の印象と変わってきたりして、それが映像の効用なんだとわかった。この作品も、最初はよくわからなかったが、スプレーで落書きされた遺跡や捨てられたゴミを見て、かつての神聖な場所が辱められている落差がだんだん感じられた。
高橋喜代史「ポスター」。まず、日本語・英語・アラビア語で「助けて!」と書かれた大きなポスターが貼ってある。その次に映像、前にベンチが置いてある。その奥にキャプション。既にお客さんがベンチに座って映像を観ていたので、その前を通るのがはばかられて、キャプションを見ずに映像を鑑賞することにした。
高橋氏が道端の壁に上記ポスターをテープで貼ろうとしている。しかし風が吹いてポスターがめくれ上がったり、テープが剥がれたりしてなかなか貼ることができない。いかんせんポスターが大き過ぎるのだ。複数人でおさえながらだったら簡単に貼れるのに。しかし、通行人は高橋氏を助けようとしない(私も足を止めないと思う)。ようやく1人の男性が手を貸してくれる。男性がポスターの端をおさえていてくれるが、それでも前述の事態が続き、なかなかポスターは壁に貼り付かない(男性の心境を想像して胃が痛くなった。実は用事があったのに、今さら途中で投げ出せずに困っているんじゃないだろうか)。しばらくしてからポスターは壁に貼り付いた。高橋氏が男性にお礼を言う。
なるほど、複数人でやったら簡単に終わるのに、周りの人が助けてくれないから簡単に終わる問題も難しい問題になっている、それを伝えようとしている作品か。と思ってキャプションを見て仰天した。まさかこんなに具体的なメッセージがあったとは。
この高橋氏が行っている「Free Watermelon Bar」(無料でスイカジュースを配るパフォーマンス)も、奇をてらったパフォーマンスかと思っていたが、実はパレスチナ問題と関係していた(パレスチナの国旗に赤と緑が入っているのだ。会場にはパレスチナの国旗がなかったので、検索した)。パレスチナで医療活動を行う猫塚さんとの対談映像で、直接的な支援でなくても、世界がパレスチナを忘れていない、というメッセージを送り、連帯することが大切だとあったのを見て、震災の時を思い出した。あの時は、誰も私たちの不安をわかってくれない、と社会から見捨てられた気持ちになっていた。だから、震災について言及してくれるだけで嬉しかったのだ。
「ポスター」の前のベンチは小さかったので、知らないお客さんと並んで映像を鑑賞した。最近マスクをつけずに外出するようになって、マスクなしで他人と交流するのはまだ慣れない。マスクなしで知らない人と並んで座って同じ映像を観るのは、何かほのぼのする体験だった。
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