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大和文華館で東アジアの人物画に触れる。

大和文華館の注意項目

1月25日 大和文華館「伝神写照 ―東アジアの人物表現とものがたり―」   

に行ってきました。  

撮影OK  

講演会「中国絵画に描かれた女性たちーその物語性と表現をめぐって一」を聴講  

 

今回のテーマ「伝神写照(でんしんしゃしょう)」とは、4世紀後半、中国・東晋時代の画家、顧愷之(こがいし)が唱えた言葉。形を似せることよりも「精神性を描くこと」を重視した画論のことです。 この言葉だけ聞くと「抽象画かな?」と思いがちですが、題材は写実的な人物画。その人物のしぐさ、服装、表情から「画家が何を伝えたいのか」を読み解こう、というのがこの展覧会の狙いのようです。 

……とはいえ、私にそこまで読み解く力があるかと言われると、基本的に無理です! というわけで、今回はキャプションの力をお借りして色々考えてみました。撮影OK、本当に助かります。(図録は買いだすと止まらなくなるのが目に見えているので、我慢しています) 

出陳数は42点。1日のんびり過ごすにはちょうどいいボリュームでした。その中でお気に入りになった3作品について感想をまとめます。 



老子出関図

【1 老子出関図(富岡鉄斎 筆)】 

道教の始祖・老子は、周の官吏(公文書の保管係)でしたが、周の衰退を悟り、隠遁するため西へと向かいます。その途中、函谷関(かんこくかん)の関守・尹喜(いんき)に頼まれて自著を授け、牛に乗って去っていく……というおなじみの名シーン。画像検索すると大量に出てくる定番の題材です。 

富岡鉄斎が描いた本作は、あえて背中を向けた老子の姿を描いています。その後の行方がわからなくなったという神秘性を表現しているそうですが、その姿はさしずめ西部劇『シェーン』のラストシーン! 心の中で「老子、カムバーック!」と叫びたくなりますが、絵全体を見直すと、どこかコミカルな雰囲気も漂っていて不思議な魅力があります。 

ところで老子は、実際どれくらいの距離を移動したのでしょう? 洛陽から函谷関を経由し、楼観台で説法してさらに西へ……。少なくとも450km。この牛に乗って450km……。考えるのはやめておきましょうか。 

鉄斎(当時70歳)がこれを描いたのは、日露戦争後のポーツマス条約締結、そして日比谷焼き打ち事件が起きて日本中がてんやわんやだった年です。そんな激動の中、鉄斎はどんな気持ちだったのか。単なる懐古趣味ではなく、時代の喧騒から距離を置き、「精神の自由」を示そうとした強い意志の表れだったのかもしれません。(別名:現実逃避……?) 

鉄斎はWikipediaによると「自分は意味のない絵は描かない」「まず賛文(書き込まれた文章)を読んでくれ」が口癖だったそうなので、内容をチェックしてみました。 

(『老子』第9章より抜粋)  

持而盈之/不如其已/揣而鋭之/不可長保/金玉滿堂/莫之能守/富貴而驕/自遺其咎/功遂身退/天之道。   

(現代語訳)   

なみなみと注いで溢れさせようとするのは、適当なところで止めるのには及ばない。    

(刃物を)研ぎ澄まして鋭くしすぎると、その切れ味を長く保つことはできない。    

金や宝石が家いっぱいに満ちていても、それを守り通せる者はいない。    

富と名声を得て、さらに奢り高ぶるなら、自ら災いを招くことになる。 

私なりにまとめると、「絶頂は衰退の始まり。引き際の美学と中庸が大事!」といったところでしょうか。そう考えると、鉄斎がこの時期にこの絵を描いたスタンスが、少しわかったような気がします。 


孔子観欹器図

【2 孔子観欹器図 雪村周継筆】  

同じ大和文華館で呂洞賓図を見て以来、雪村の絵にすっかり魅了され、展覧会のリストにその名を見つけると、いつもワクワクしながら足を運んでいます。雪村は水墨画のイメージが強かったのですが、中国風の鮮やかな彩色も使いこなす、その表現の幅広さには驚かされます。  

そんな雪村と「足利学校」の繋がりを示す作品が、この《孔子観欹器図(こうしかんいききず)》です。江戸時代の儒学者・林羅山も『日光紀行』の中で、足利学校に伝わるこの図について記しており、室町時代にはすでにこの画題が日本へ伝わっていたことを示す貴重な資料です。 

 

この絵が描いているのは、孔子が弟子たちに「欹器(いきき)」という不思議な器に水を注がせた、という逸話です。 別名「宥座之器(ゆうざのき)」と言い、座右の銘ならぬ「座右の器」として、自らを戒めるための道具です。 

その仕組みを、雪村は三つの桶の並びで表現しています。 

右の桶: 中が空っぽだと、バランスを崩して傾いてしまう。  

真ん中の桶: ほどよく水が入っていると、まっすぐに自立する。  

左の桶: 欲を出して満杯まで注ぐと、ひっくり返って全てこぼれてしまう。 

 

「空でもダメ、満杯でもダメ」。 中に入れる水を「知性、功績、富、権力」に置き換えてみると、教えの深さが身に沁みます。何事もやりすぎたり傲慢になったりすれば、足をすくわれる。やはりちょうど良い塩梅を保つ中庸(ちゅうよう)こそが最も美しく、そして最も難しい……。まさに儒教のイメージそのものです。 

 

 

ただ、少し疑問がありまして、「雪村自身は、本当にそれで満足だったのか?」 雪村の絵って、どこかエッジが効いていますよね。基本を押さえた水墨画も素敵ですが、この絵も「素直にほどほどが良いよね」と言っているのか、それとも別の皮肉が込められているのか……。キャプションを読み込んでも、そこまでは辿り着けませんでした。 



文姫帰漢図巻 第四拍

【3 文姫帰漢図巻】  

蔡文姫といえば、三国志ファンとしては蔡琰でおなじみですが、運命にもてあそばれた悲劇のヒロインでもあります。  

父・蔡邕(さいよう)が非業の死を遂げ、彼女自身も董卓残党による混乱の中、匈奴(きょうど)の騎兵隊に拉致されてしまいます。そこで南匈奴の左賢王・劉豹(ゲームのパラメータ的にはヘッポコですが……)の側室にされてしまうという、これでもかという悲劇の連鎖。   

絵巻からは、とにかく言葉が通じないストレスが伝わってきます。通訳もおらず、絶望しかない状況。さらに劉豹との間には二人の子を設けますが、言葉の通じない略奪者との子作り……よく心が壊れなかったものです。 

 

拉致から12年。突如、救いの手が差し伸べられます。父と親交があった曹操が、高価な宝物(金の璧)を贈って彼女を買い戻す交渉をしたのです。 こうして交渉は成立し、彼女は12年ぶりに漢の地へ帰ってくるのですが、ここで新たな悲劇が。「二人の子供は匈奴に残していかなければならない」という残酷な条件でした。 

その別れの悲痛さを歌ったのが「悲憤詩」です。 

「児こすすみて我が頸くびをいだき、母に問うにいずくにか之ゆかんと欲すと」(我が子が私の首に抱き着いてきて「お母さん、どこに行っちゃうの」と聞く)という悲痛な詩句です。 これが第一三拍にも残っていて、ものすごくもどかしい気持ちになりました。最終拍では洛陽に戻った姿を見せたのですが、彼女は素直に喜べたのでしょうか。 

絵の中の彼女は、常に背を伸ばし気丈な姿で描かれていましたが、それがかえって彼女の背負った悲劇の大きさを強調しているようでした。 

 

……と、しんみりしましたが、最後に根本をひっくり返すような私見を一つ。 彼女は当代きっての才女。言語能力だって、下手な外交官より高かったはず。そんな彼女が「言葉が分からない」と絶望し続けるのは、どうも腑に落ちないのです。実は言葉は分かっていたけれど、あえて知らないふりをしていたのでは……?なんて考えてしまうのは、私の性格がひねくれているせいでしょうか(笑)。 

 

紹介した3作品はいずれも有名人を題材とされたもので、元になったシーンも広く知られたものです。だからこそ、作者の気持ちが透けて見えないかと思いましたが、まだまだ気持ちを理解するのは難しいですね。だからこそ面白いのでしょうね。 



プロフィール

ぷーなが
令和7年9月からレポートを書き始めた、技術、美術史、人物などちゃんと勉強していないド素人です。今は鑑賞の機会を増やし、見る目を鍛えたいと思います。
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