LOVE ファッション―私を着がえるとき
京都国立近代美術館|京都府
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私はなにになりたいのか
前回の京近美×KCIによる展覧会「ドレス・コード?-着る人たちのゲーム」では、私たちが社会生活を営む中で逃れることができないさまざまな装いの規範が可視化された。他者の存在を否が応でも意識せざるをえない私たちは、自由にファッションを楽しんでいるように見えて、実際は多くの制約や不自由さの中でなんとかやっているということが、ドレス・コードという「空気」に「?」を投げかける形で浮き彫りにされ、「わかる、わかる」と膝を打ちつつ、自己内省も促される非常にスリリングな鑑賞体験を味わえた。
本展はそれに比べるといくぶん緩い印象を受ける。前回の展覧会の「つづき」を意識して企画されたということを踏まえるなら、それはファッションにおける社会性ではなく、主体に焦点が当てられているからだろう。だから、「~したい」という欲求を軸に章立てされ、それを示唆する誇張的な衣装の数々を展覧する本展に、共感できない鑑賞者がいても仕方がないことかもしれない。しかしそれを補完する要素として会場内には文学作品が適宜引用されている。フィクションの物語に没入するように、ファッションを通して個々の欲望に分け入る想像力がここでは重要になる。
本展では「着たい」という欲望は、何かしらの存在や状態に「なりたい」という欲望の代替として機能しているように見受けられる。しかし、おそらくそこには圧倒的な齟齬が横たわっていて、身体の外観を変えることが「なりたい」という欲望を充足させえないことを露呈させているようにも見える。だからこそ、衣服という物体は身体の平凡さを超え出て、ひとりでに多種多様な様相を示しているようにも思えてくるのだ。着がえ続けたさきに、私たちはどのような自分を想像しているのだろうか。私はなにになりたいのか、あるいはなりたくないのか。多様な衣服作品たちは、そうした私たちの想像しうる限りの欲望の欠片や残骸のようなものなのかもしれない。
と、ここまで「着る側」の実践や欲望にフォーカスしてきた同館のここ数年のファッション展。さらに「つづき」を意識するなら、「作る側」を体系的に紐解くファッション展も観てみたい。もちろん、近年はデザイナーやブランドの展覧会が活況を呈しているし、それぞれのファッション・クリエーションの美学・哲学を体現する章立てや会場構成も目を見張るものがある。しかしそうではなく、もっと根源的な「衣服を作る/創る」という営みを総合的に俯瞰してみたい。そこでは歴史上の多彩なデザイナーの存在が重要であることはもちろん、着るモノのかたちそのものや技術的な過程なども重要になるに違いない。書いている自分の気が遠くなってしまったが、いつか観てみたい夢の展覧会だ。