秋季特別展「みちのく いとしい仏たち」
龍谷大学 龍谷ミュージアム|京都府
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その想い、一級品です!
雨上がりの京都。アートアジェンダさんに招待券をいただき、母と二人出かける機会になりました。事前にこれは面白そうと感じたのは、プロの仏師の作ではないこと。神像・仏像の類型から自由な、より地域性のある、生の心の表出なのでは?という期待がありました。可愛さ・面白さですべてが記憶に残りましたが、特に考えさせられた作について感想を述べたいと思います。
一、おかあさんとおばあちゃん
青森県南部町恵光院の女神像は、緩やかな山を連ねたような姿をしています。尼の服装、ふくよかで優しい顔、まるで誰かのお母さんのような親しみに満ちています。山神は男神や獣の姿のイメージがあり、意外な思いでした。
また、秋田県湯沢市三途川集落の奪衣婆像は、会場に現物はなく、参考写真と映像のみでしたが、強烈な印象がありました。まずその姿ですが、顔部分の彫り以外は木の根っこの形そのまま。力強さがあります。地元の人は「おばばさま」と呼び、この像を削った粉を飲むと腹痛が治ると信じられたそうです。調べてみると、奪衣婆は姥神(山の女神)信仰と重ねられ、女性と子供の守り神として民間信仰の中でかなり存在感があったのだと知りました。
優しい山も荒々しい木も、ハイブリッドな慈母の姿なのでしょう。
二、ホトケもカミも人間だ。
岩手県葛巻町宝積寺の六観音立像は、その大きさで会場でも目立っています。加えて、神像・仏像のイメージからひときわ逸脱している印象があります。なぜなら、目鼻立ちが薄い、のっぺりした顔で、棒のような体には、おそらくこの作者は仏像を知っているとおぼしきインド風の衣装の装飾があります。しかし、足元の衣類が軽やかにはだけ、足首がむき出しの者もあります。地面に素足で立つさまは覚束ない。頭には鏡餅や塔のような各々違うものを乗せていますが、それぞれの姿の特徴や持物もなく、どれが何の仏かわかりません。
不思議なことには、これらの像は神像や仏像には見えず、むしろ人間らしいと感じられます。技術以前に、人々が自分たちをどのように見たか、そういう素朴な目が伝わって来るのでしょうか。
三、美しさを見つける。
ここまで面白いものばかりの中で、一番感動したのは円空の仕事でした。青森県蓬田村正法院の観音菩薩坐像は、今の目で美術品としか言いようのない作です。まず、全体のバランスが見事に美しい。少し丸みのある頭部に対し、体は衣の線がわずかな溝で彫られているだけの平面。髪を表現しているようなノミの跡には規則性があり、直線的なリズムを作っています。抽象的な仕事だと思います。
同じセクションに、この円空仏の影響を示すものとして紹介されていた数々の仏像の中にも、気になるものがありました。同じ正法院にある如来坐像は、山形に記号化された体に不自然なほど小さい頭が乗っています。まるで円空とは違いますが、独自の抽象的形態に向かっていると見えなくもない。むしろ神々しいと思う如来立像は、青森県青森市の観音寺のもので、ナタでぶった切ったような、直線的な造形です。余計なものは何もなく、ただ衣を纏った人がいるという実在を感じます。これらは技術的に意図が汲み切れないながら、円空の仕事から何かを受け取った人々がいたのかもしれないというロマンをくれます。
知識や技術が完璧でなくとも、あの世までも一緒にいてほしい存在を求め、その姿を自分で作ろうという作り手の熱が感じられました。そして本当の傑作の意義もわかる、期待以上の展示でした。東北、行ってみたいな。
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