土門拳の古寺巡礼
東京都写真美術館|東京都
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動くものと動かぬもの
侍ジャパン、世界一奪還おめでとうございます。
と、いちおう時事ネタぶっこんで書き始めましたが、アートと関係ないこと書くなとのお叱り受けそうで、申し訳ありません。
でも、ここからチカラ技で強引にもっていきますのでよろしく。
野球に限らず、スポーツの世界で個人にせよ、チームにせよ日の丸背負って頂点に立つシーンを見るのはほんとに嬉しい。特に球技は、やって面白いし見ても面白いから、思い入れが強くなってしまう。
球技にもいろいろあって、大雑把な分け方で「動いてる球」を扱うのと、「止まってる球」を扱う二通りがある。前者はほとんどすべての球技、後者の代表がゴルフである。
動く球技をやってた人にゴルフを勧めると、「止まってる球を打って何が面白いんだ」と言う人がいる。
一理ある。それってスポーツじゃないだろと言われたら返答に窮す。
でもまあ、そういう人がゴルフにハマるのを何人も見てきたので、あらためて球技っていいもんだと思う。
写真の世界では、被写体が動くか動かないかで大分類できるかもしれない。
動く代表が報道写真。動かなければ風景やポートレイト。写真をアートと捉えるなら、そのほとんどは「動かぬ被写体」を撮影したものではなかろうか。
きれいな海・山・川、美しい建築・庭園、静物そして女性。
自然の風景は時間や季節で移ろうし、生きてる人は動くものを止めるわけだから、一概に「動かない」とは言えないかもしれない。
ただ、プロの写真家の作品には、被写体が動くか動かないかで見て感じるものや訴えかけてくるものに、厳然とした差異があるように思う。
土門拳の「古寺巡礼」は明らかに「動かぬ美」を追求したシリーズだ。
タイトルは聞いたことあったが、作品を見たことはなかった。
そのタイトル通りの展覧会が始まった日に、上京していたので行ってみた。
東京都写真美術館は初訪問。恵比寿ガーデンプレイスにあって、常時複数の写真展を同時開催してるみたいだ。
その日も二つ、三つやっててセットなら割安だが、当展のみでチケット買った。
会場の地階に降りて鑑賞開始。
土門が写真家人生掉尾を締めくくろうと選んだのは日本各地の寺院や仏像。行ったことある寺、見たことのある仏像もあればそうでないものもある。
どの寺、仏像にも土門のコメントがあって、撮影時のエピソードや、仏像への思いが淡々と綴ってあった。
その写真だが、インパクトあったのは、仏像の一部をアップで撮ったもの。仏像が安置してあるのはほとんどの場合、薄暗いお堂の中なので、離れた位置での遠望となる。
が、土門は接写に近い形でドアップ撮影を行っている。顔や手足や衣、光背や装飾、足元の邪鬼、等々がなるほどこんな造作だったのかと逐一わかって、新たな発見だった。
仏像は動かない。撮るならいつでも撮れる。簡単じゃないかと我々凡人は思う。
しかし、土門の仏像UPを見ていると、そのシャッターが切られるまでの時の流れが悠久にも思えてくる。
通常は撮影禁止の仏像を接写したということは、寺院の許可が下りて特別待遇されたということだ。土門もそれに応えるべく万全の準備で臨み、シャッターを切る瞬間は、あたかも居合切りの達人が刀を抜く瞬間であるかの如く、一写入魂の画となっている。
動かない被写体に対していつシャッターを切るか。我々凡人にはわからない。
極意という言葉が最も相応しいのは写真家かもしれない。
ただ、屋外となると話は別だ。屋内では止まる時間もそこでは止まらない。
そしてその時は訪れる。
決定的な一枚がある。平等院鳳凰堂の屋根と夕焼け空を逆光で撮ったものだ。
撮影を終えて帰ろうとした土門がふと背後を振り返ったときに見えた光景。
千載一遇ともいえる瞬間だ。剣豪土門は、一刀両断でそれを仕留めた。
「球が止まって見えた」という川上哲治。
WBC準決勝9回裏の村上宗隆も間違いなくそうだったろう。
プロがその境地にあるとき、美は生まれる。
静と動。両者を極めたプロカメラマン土門拳の集大成が「古寺巡礼」なのだ。