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「日本美術の19世紀」兵庫県立近代美術館、開館20周年記念特別展図録(1990)より

「松本喜三郎について詳しく触れてきたのは、こうした造形表現を美術史がその視野にとらえていないことを問題にしたいからだ。光雲がやがて帝室技芸員となり、息子の光太郎が西洋風の芸術家意識を身につけていくのとは対称的に、喜三郎の仕事には「美術」という言葉が冠せれられることはなかった。このことは、先に引用したオリファントの評価、完璧ではあるけれども「美術」としては最低という時の「美術」という規準を日本社会が引き受けてしまったことを意味している。」

「美術が制度化され、見世物が斥けられたのが日本の近代化であった。」

「浅草で見世物に親しみ、逆に博覧会は「なんのことかサッパリ様子が分らない」高村光雲が展覧会に彫り物を、やっぱり浅草生まれの牙彫師旭玉山が牙彫の骸骨をそれぞれ「美術作品」として発表する時代がやがて始まろうとしていた。」


「日本美術の19世紀」兵庫県立近代美術館、開館20周年記念特別展図録(1990)より


プロフィール

松山賢
岩手県御所野遺跡近くで生まれる。
湯舟沢遺跡すぐ横で育つ。
横浜市三殿台遺跡そばに在住。
京都で日本画制作を経て、
土器、人形、彫刻をつくりはじめる。
最近は油彩画、野焼きの陶彫を制作、発表している。
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