ミイラの美は何を語りかけてくるのか
大阪南港ATC Galleryで開催されている「特別展 ミイラ ―「永遠の命」を求めて―」に足を運んだ。ずいぶん前に国立科学博物館で開催されていたものが、最終会場となる大阪へ巡ってきた。
いつの頃からか、死んだら燃やして灰にされずに骸骨になりたいと夢見ている私にとって、ミイラはとても興味をそそる対象だった。棺は、あの装飾的なエジプトのミイラの棺がいいなんて思っていたこともある。
ミイラといえば、古代エジプト。そんな人も多いのではないかと思う。
しかしこの展覧会は、エジプトはもちろん、南米から日本まで世界各地に存在するミイラの学術的研究成果を概観できる、とても有意義な展覧会となっている。科学技術の発展によって可能となったミイラへの学術的まなざしは、自然科学的見地からも民族学的見地からも、その興味をますますくすぐるものになっている。少なくとも、ミイラへのSF的、ホラー的、神話的なステレオタイプを乗り越えて、ある社会・時代の中で生きられた人間の身体を丁寧に、真摯に見つめていくことを可能にしてくれるものだった。
とはいえ、そういったファンタジーも否定されてはいない。会場の一番はじめに展示されている包まれた子供のミイラは、ガラスケースの中でただ横たわっているだけでなく、最新科学が透視したミイラの実体を、まるで展示品から幽体離脱するかのような演出で見せてくれる。
ミイラを見ることに関して、どこか居心地の悪い感じを抱く人も少なからずいるのではないだろうか。言ってしまえば、それは死体、しかもまったくの他人の死体なのだから。
身近で亡くなった人ですら、辛くて悲しくて直視したくてもできないなんてことがあるというのに、ガラスケースの中のほとんど骸骨状態の黒ずんだ身体を、まじまじと眺めるなんて。自分はなんてことをしているんだろうと、思わないでもない。
それでも。なぜだろうか。ミイラたちは私のまなざしを引きつけて離さない、そんなある種の美しさを湛えていた。目を逸らしたくなるというよりは、しっかりと目に焼き付けなければならないというような、そんな感覚のほうが強かった。
物珍しさというのもあるかもしれない。けれども、それとはまた違った感覚、何か目を逸らしてはいけないものを、不思議な美しさで見せてくれるのが、ミイラだった。
永遠の眠りについた身体。
そっとしておけばよいものを、死因を調べたり、どんな生活をしていたのか、どんな病気を患っていたのかを明らかにしたりする。骨格などから眼球や皮膚を復元してみたりする。それはそれで興味深い。でも雑音的にも感じてしまった。
皮膚と骨格だけになった身体や顔を痛々しいと感じる人もいるかもしれないが、私は、肉付いた身体のほうがよっぽどグロテスクなのではないかと、ミイラを見ていて思った。
血の通った皮膚や潤みを湛えた眼球、艶のある髪の毛など、それらは健康的で美しい身体を指向する一方、さまざまな苦痛や脅威の影響を受けていくことを余儀なくされている。人間が生きている限り、生きた身体はその辛さから逃れられない。美しさを求めながらも、その美しさから遠ざかっていくこともまた現実である。
年老いてゆくこと、傷つけられること、あるいはそれらから自分を守ることですら、現実の辛さを象徴しているといえるだろう。それらから自由になりながら、同時に半永久的に姿を残すこととなったミイラは、ある意味では時間を見方につけて、「永遠の美」を手に入れた人間の姿なのかもしれない。
鑑賞に耐えながら、なおかつ見る人の心を揺り動かす遺骸。生ものでありながら、一個のモノでもある身体。
――それは私自身でもある。
そこに横たわっているミイラが自分自身であるかもしれない可能性を考える鑑賞者がどれだけいるかわからないが、少なくともミイラは、永遠の眠りについたときの自分自身の身体への想像を誘発することだろう。
私は、どこかそれに安らぎを感じてしまった。安堵してしまった。生は豊かかもしれないが非常に厳しく険しいものでもある。私たちはそのような生に支配されているのではないだろうか。この支配的な感覚を取り除いたのは、しかし生きていたこの皮膚や骨といった身体でもあった。そこになにか希望のようなものを感じたのだった。
私たちはたえず変容している。それは事実かもしれないし、そう信じているだけかもしれない。しかし皮膚や骨格がモノとして存在するようになったときの特異な、不思議な美しさは、実は物的なモノとして自分自身を見つめ直すことに意味を与えているのではないだろうか。
生きていると同時に静的なモノでもある身体を受けとめて、自分自身にも変わらない美が存在することを肯定するために。
ミイラのこの奇妙な美しさは、「自身の皮膚と骨格を愛せよ」と語りかけているように、私には聞こえた。