あやしい絵展のつづき――現代の「あやしい絵」を探してみる
7月某日、かねてより楽しみにしていた「あやしい絵展」を鑑賞するために、大阪歴史博物館をはじめて訪れた。
ビルの6階が会場で、それほど大きな展示室ではなかったので、会場を一周するのにそれほど時間はかからなかった。
展示されている各作品に解説が付されているわけではないので、知りたくてもわからないことも出てくる。しかしそのぶん、その余白に自分の想像力を働かせて、「あやしい絵」とは何かを思考してみるのもおもしろい。
ここでは、それらの表現について考えたことを少し書いてみようと思う。
「あやしい」表現の特徴とは
展覧会タイトルが「あやしい」と平仮名で表されているのは、時代や社会ごとのさまざまな「あやしい」表現を含意させるためだろう。
幕末から昭和初期まで、浮世絵から美人画、本の挿絵など多様な表現が参照され、それによって社会状況と人々の意識や嗜好を表出させる意図があったようだ。
それでは、「あやしい」と思わせる表現にはどのような特徴があるのだろうか。
展覧会企画者の中村麗子氏は「退廃的、妖艶、奇怪、神秘的、不可思議といった要素をもつ、単に美しいだけではないもの」と「あやしい絵展」の出品作品たちを形容している。
ではこのような多様な「あやしさ」はどのような表現的特徴によって生み出されているのか。
本展が安本亀八の「生人形」の展示から始まっているように、リアルを求める執念のようなものが、「あやしさ」の背景には横たわっているように思われる。
描写的な意味でのリアル、感情的な意味でのリアル。本展でフォーカスされていたのはこのような点ではないかと思う。
凄惨さも心に渦巻く怨恨も余すことなく描ききる。それは見えているものをただ描き写すだけではなく、画家の手と思考が試行錯誤ののちに到達しなければならない地点ではないだろうか。
何がそれを感じさせるのか。
視覚的なものも情感も、それこそ比喩的な意味で「ミクロ」な状態を執念深く追求することがリアルさを補強することになるだろう。
と同時に、あまりにも追求されすぎたリアルさは、異様なものへの扉を開いてしまう。
その極限と境界を垣間見ることが、「あやしい絵」を見るということなのではないだろうか。
ところで、私は執念的表現の要素として、線あるいは点の力というものがあるのではないかと思った。
たとえば、線といえば一本一本の髪の毛を線で描くことを思い浮かべてほしい。
それはまさに執念と根気のいる作業ではないだろうか。もちろん、髪は線でのみ描かれるわけではないが、一般的に毛量の多さで特徴づけられる女性像は、髪の表現でさまざまな表情を見せることができるだろう。
「あやしい絵展」にも、表向きは仲良くしているような女ふたり(妻と側室)が、互いにうたた寝をしている間、彼女たちの髪が蛇と化して噛みつき合っていたという、嫉妬の念を表現した作品が出品されている。
ある意味、線が髪という連想を通して女性的なものに通じるからこそ、本展でも言及されているように「あやしい絵」には女性像=美人画などが多いのではないかとも思える。
現代の「あやしい絵」を探してみる
それはそうと、本展では幕末から昭和初期を対象に「あやしい絵」を選び出していたが、現代の「あやしい絵」といえるような作品はないのだろうかと、ふと思った。
社会的背景などはあまり考えないこととして、もし「あやしい絵」の範囲が現代にまで広がっているならどんな作品が見られるだろうか。そんなことを空想してみた。
ここからは、個人的に「あやしい」表現を生み出していると思える現代の作家を何人か挙げてみよう。
まず、真っ先に思い浮かんだのがヒグチユウコ。
「CIRCUS展」ではじめてヒグチユウコの作品を間近に鑑賞して、細やかな描写が凝縮された不可思議な世界観に魅了されると同時に、緻密なインクの線描・点描に圧倒された。そこに、印刷物では伝わらない息づかいが感じられたのには素直に感動した。
なにより、ヒグチユウコの作品は少女や動物、奇妙な怪物など、モチーフそのものからしてミステリアスだ。くわえて、少女や動物たちの人形のような愛らしさの一方で、近くで見れば見るほど引き込まれる精緻な描写はグロテスクですらある。そしてこれはリアルさの追求としても見ることができるだろう。それこそ「あやしい」表現の特徴として考えた執念深さの現れではないだろうか。
つぎに日本画家、松井冬子。
死のイメージが漂う彼女の作品はたしかに恐ろしさを感じさせるものの、決してそれだけではない美しさがそこはかとなく滲み出してくる。いくぶんグロテスクさは強調されているものの、「あやしい絵展」にも展示されていた上村松園の美人画を思わせるような、繊細な女性像が印象的だ。つまり内面的深淵に見る者を誘う力があるということだ。
内臓が飛び出ていようが、もはや痛みなど超越してしまったかのような表情の女性が横たわる《浄相の持続》など、ぴったりではないだろうか。狂気的なものに美を感じることにはいまだ後ろめたい感覚がつきまとう。しかし実は誰もが内面に不穏なものを秘めているのだということを静かに肯定してくれているようにも感じられるのが松井冬子の作品の美しさであり、「あやしさ」だ。
油彩画でいえば、金子國義はどうか。
異国的な人物像が強い印象を残す金子國義の絵画。甘ったるいような渋いような、アンティークのドールハウスを愛でているかのような優美さに惹きつけられる。金子独特の定型的な人物像は、個々の作品と血脈的に繋がり合っているように見える。そのせいか無感情にも見える人物たちには一続きの物語が予感させられる。それはまさに人形が遊戯の中でその持ち主とさまざまな物語を体験してきたようなことだろうか。
物語を感じさせるという要素も、もしかすると「あやしい絵」には重要な要素かもしれない。挿絵も含めた「美術」が多く参照されていた本展。すべてを語りはしないが、物語を彩る絵画表現は、想像力を介して物語を読むひとの感情を揺さぶる。
さいごに、マンガからも。
この世のものとは思えぬ美麗な容姿と空想的で豪華な衣装。そんな作風が魅力的な漫画家集団CLAMP。彼女たちの作品で私がもっとも好きなのが「xxxHOLiC」なのだが、この話はまさに「あやしさ」で満ちている。
願いを叶える店の女主人、壱原侑子の存在がすでに妖艶かつ神秘的だ。彼女の特徴的な長い黒髪、すべて見透かしているかのような切れ長の眼にどきっとしてしまう。また、この店で働くことになったアヤカシを見てしまう風変りな青年、四月一日君尋とともに出会う、さまざまな客と不可思議な現象が人間への考察に溢れていておもしろい。
完全に個人的な願望だが、あの「あやしい」世界が描かれた原画などが見てみたい。そしてバラエティー豊かな登場人物たちの衣装についてなんかも、掘り下げて見られるとなお嬉しい。
・・・・・
妄想が過ぎただろうか。
現代の「あやしい絵」を探してみると、他にも該当しそうな、おもしろい作品や作家が見つかるのではないかと思う。
社会的背景などはあまり考えなかったが、「あやしい」と感じる表現を生み出すこと、そしてそれを愛でること、そこにはまだまだ考えるべきことがありそうな気がする。
もし「あやしい絵展」に現代の章が開かれているとしたらどんな表現が見つかるか。
鑑賞された方も、そうでない方も、各々の興味関心や身近なものに引きつけて、自分だけの展覧会のつづきを妄想して楽しむのも一興ではないだろうか。
展覧会情報
「あやしい絵展」
会場:大阪歴史博物館
会期:2021年7月3日(土)ー8月15日(日)
前期:7月3日(土)ー7月26日(月)
後期:7月28日(水)ー8月15日(日)
休館日:火曜日※ただし8月10日(火)は開館