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生誕130年 没後60年を越えて 須田国太郎の芸術――三つのまなざし

生誕130年 没後60年を越えて 須田国太郎の芸術――三つのまなざし

世田谷美術館|東京都

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「須田国太郎の目指した世界」

以前から数点の代表作は画集などで目にすることがあり、その度に気にはなっていた画家なのだが、展覧会を見るのは今回が初めて。
そうだよね、今から思うと須田氏が亡くなった時まだ小学生だった当方にとって、昔は社会全体にこんな雰囲気がちょっとあったな、などと妙に懐かしい。
閑散とした館内を巡り歩くと、余計にそんな思いが増して来て、その頃よく遊んだ神社の境内で子供ながらにとらわれることのあった、何か得体のしれない不可思議な深奥の感覚、そんなことと似たものがこれらの絵にも語られているようでもあり、それは一体どういうことなのだろうと今更ながらに思われ、その辺りをちょっと探ってみる気にさせられた。

展示全体をざっと眺めてみると須田がテーマの基本としたのは、日本と西洋の統合ということにあったようで、須田はそのことを日本と西洋の何か本質的かつ対等なレベルで行おうとしたのだと思われた。というのも当時の須田は欧米列強と対等にという強い国体意識の持ち主であり、また自らの東西美術統合の行為を「英雄的」とも考えていたらしく、その統合における日本的要素を、西洋を主とした従の立場に甘んじさせるわけもなかったろうことから、それは当然のことであったろう。
そして持ち前の優れた論理的思考力により、西洋絵画の本質を「物象の本源性の論理的実在化を図る」といったリアリズムにあると見極めると、それに相応しい「日本の何か根源的本質」を同格的に対応させ、両者の確固たる融合と統合を果たそうと目指したのでなかろうか。
ではその日本の本質とは具体的にどういうものだったのだろう。

そこでその辺りの参考にと専門家の解説などにいくつか当たってみたが、ヴェネチア派・バロック・セザンヌらとの関係という西洋美術史的な面からの影響の話ならいくらでもあるのに、どうもその東西の統合における須田の「日本側からの持ち出し」は何だったのか、そして結局須田はそれを実現出来たのか、などといった肝心なことにはほとんど触れたものがない。
しかしこれは少々片手落ちではなかろうか。須田の絵画を論じるなら、その両方の統合関係というテーマを明らかにすることが、何よりも重要なのではないだろうか?

ということで改めて須田の主要作品(アーヴィラ・唐招提寺礼堂・海亀・犬・鵜・窪八幡・・)を良く眺めて印象をまとめてみると、それはまず「日本の歴史の深奥にある本質」の直感的な代用として「幽玄と余白(主白)」といった日本文化に既存の感覚イメージを援用し、画面にそれらの情趣性を暗部と明部とに反映させ、互いに強くコントラストさせたものとなっているようである。
そしてそのように「幽玄と余白(主白)」の相対性を表裏一体的に強調することで、描かれた個々の形象と全体が深い水墨画的余韻を含む象徴的画面となり、さらにはそこに西洋リアリズム歴代の描法をも用いることで時空的な厚みを増幅させ、その日本の本質的なものを一筋の実在的光明のように現出させようとした、という風な表現になっていると感じられる。
つまり須田のその「日本からの持ち出し」とは、一言でいえば「日本の精神性ということの直感的本質」であり、それを西洋リアリズムと融合させようと試みたというのが絵画制作のテーマでもあったのだろう。

そしてそうした日本の水墨的精神性の深奥が、悠久の時空感を宿す濃密なマチエールの中で「日本の肖像」のごとき形象を付与され、リアルに彷彿して来るといった独自の表現は、それはそれで素晴らしいものがあると言えよう。
事実それだけでも須田の重厚な作品群は、すでに鑑賞者にある種の充実した感銘を与えることが出来ているわけだが、しかし果たしてどうだろうか、西洋と対等の融合を望んだ須田はそうした状況に、自身は十分に満足はしていなかったのではなかろうか。

つまり理論家でもあった須田が西洋絵画論を論じ、そこで西洋絵画の本質を「リアリズム」と見切った割りには、おそらく日本美術の客観的本質の方についてはあまり明確な認識を持っていなかったのではないかということ。そこでついそうした「幽玄と余白(主白)」という既存の精神的感覚イメージに頼って日本からの「持ち出し」とし、それを西洋論理的リアリズムに融合させてみたという、「対等」というには今一つ詰め切れていない表現に留まっているという自覚があったのではなかろうか。
従ってまたその辺りについての専門家の言説も、それに準じてどれも曖昧なままになっているのではあろうが、もし須田が日本側のそうした精神感覚レベルでない「本質内容」までも理解していたなら、その絵はまた別の違ったものになっていたのではないかということなのである。

そして須田自身が良く自覚していなかったろう、その日本の美意識の究極の本質とは、日本人皆が古代縄文以来、言わば「一元論的な無意識」のうちに大切に守り続けてきた「宗教的根源」に関することであり、その「目には見えぬ大切なものの見立て」ということにあるのではないか。
思えば日本人が「何かを成そう」とする時はことごとく、「多様の調和」ということをベースとするこの「見立て形式」に無意識の習慣のように従い、皆で似たような行動してきたと言えるのではなかろうか。

例えば縄文人は大地の力を借り、その目には見えぬ宗教的根源を土器や土偶として見立て、渡来系弥生人は古墳時代に至りそこへ高揚心と繊細さを加えて埴輪を造形した。さらに仏教伝来後は、埴輪的高揚感を引き継いだ天平の彫刻群を始め、かの雪舟も等伯も宗達も若冲も光琳らの多くの画家と、能や茶の湯の世界もが、中国の思考と仏の力を借りて、その「見立て」に勤しみ、それ以後は浮世絵から歌舞伎やら現代のコスプレに至るまでと、ほぼあらゆる大衆的文化現象が、「非メンタルな遊び感覚」で、皆それぞれにその世界を習慣的無意識の中に見立て楽しんで来たのであろう。

そしてそのようにして日本人らが縄文以来のおよそ1万年以上の長期にも渡って心の奥底に秘めた、「見立て」の営為と歴史的集積からなる漠たる感覚的な精神性が、おそらく須田の絵の「幽玄と余白(主白)」といった水墨的余情の相対統合的表現に反映しているということになるのではないか。もしそうならばそのことのよって来たる根源としての「見立ての構造」にこそ注視し、またそれを東西文化の対等的統合という発想の元に、油彩で構築的にリアル化して見せるという、言わば「見立てのリアリズム」、これが日本人としての須田にとっても当然の無自覚の理想であり、本来須田の拘りたくも気付かなかった東西統合の急所はそこなのだと言えるのではと思われる。

ところでそうしたことについては既に、特に雪舟や若冲の場合、中国と日本という異文化の夫々の論理的本質を対等に結合するというコンセプトの元、中国から学んだ論理的絵画語法と禅思想をもって、その日本的根源世界の論理構築的な見立てを試み、それを実現しているのである。
つまり何と雪舟と若冲は、須田の理想を遥か昔に達成してしまっていたのではないかということになるのだが、では須田はどうすべきだったのか・・・。
もちろん雪舟らの成さんとしたことを知る由もなく、日本人が一番大事にしてきたその見立ての構造の客観的認識もなかったろう須田とすれば如何ともし難いが、それでももし万一雪舟らと同じようにやってみることが出来たとしたらどうだったであったろうか。

相手が中国でなく西洋ゆえ、そうした「見立ての構造とその歴史的累積」を西洋リアリズムの伝統的技法や描法とシンクロさせ構築的に表現し、しかも単なる雪舟・若冲風に留まらずにそこを超えて行くとして、それが具体的にどういう作品になったかは、当方にもちょっと想像がつかない。 
もちろん見立てのベースとなる、何でも異質なものを外から内へ取り込んで自家薬籠中のものとする「多様の調和」ということなら、日本人は誰でも得意なのだが、問題はそこからの「見立ての構築的表現」なのである。
そのためには「日本人にとっての宗教的根源とは何か」という究極的難問の答えを正しく把握せねばならず、これ自体が大変難しい。さらにそれをどう西洋リアリズムで構築的に絵画化していくかとなると、もうほとんど雲を掴むような話なのかもしれない。
東西絵画の真の同格統合を夢見た須田が抱えていたろう、こうした漠たるジレンマは、解決が実は相当に困難だったということになるのではないだろうか。

後半生に入り、流行の超現実主義をリアリズムの一様式と認めたという須田が、現実と夢(意識と無意識)の共存世界が「本当の現実(真のリアリズム)」であるとするに至り、そこで日本の深奥に漂う確とは分からぬ精神の何かを暗い夢のように見なし、それを伝統的西洋リアリズムで表現することが、須田なりの一つの問題解決への方向性でもあったのだろうか。
しかしやがてその夢と現実とが混交し、一見何が描かれているのか分からぬような表現が増えたのは、そうした見立ての本質までに深く関与出来ず、本当の出口の見出せなかった晩年の須田の苦渋の彷徨の跡だったとも思えなくもない。

当方の感想はざっと以上なのだが、おそらくはそもそもの問題の難しさとゴチャゴチャした文章の拙さとが相まって、一体何を言いたいのか訳が分からない、ケムに巻かれた、くどさに辟易した、という感想の人がほとんどではないだろうか。
そこでちょっとまとめてみるというか換言してみると、結局日本美術文化の究極の核心が「見立て」ということにあるならば、そもそも何をどう見立てるのかという、その内部構造の理解が全ての前提となるのである。
そして今回説明は避けたが、もしそれが分かれば、他の日本文化のキーワードとされる「多様の調和・間・型・幽玄・余白・やつし・わび・さび・奇想・かざり・・・」といった諸概念が、ほぼことごとく有機的統一の元に理解されるようになる。
さすれば縄文以来の日本美術史の本質的な流れの概要も明らかとなり、よって当然須田が半ば無自覚的に成さんとした境地の内実とその限界までが見えてくるかも知れないということ。
例えば、これも詳しくは述べなかったが、須田の絵には暗部に対する明部が相対的に「主白(当方の造語)」となったり「余白」となったりと光陰の意義が様々に揺らぎ変容するように見えるという、能とか等伯の「松林図」にも似た陰翳礼讃的な表現がある。そしてそれも「見立ての構造」からすれば一つの必然的表現であり、須田はそれを直観的に行っていた典型的な日本人の一人なのだが、晩年のより暗さを増し、その光陰の意義も見失ったかのような苦渋の画面を見るにつけ、はたしてその方向性で正しかったのだろうかという、いささかの疑念も生じるのである。
理論家の須田としては、雪舟や若冲と同様にもっと論理を徹底させた突き抜けた行き方も可能だったのではないか。いつの間にか等伯の画境に近づいていたかも知れぬとはいえ、それは少々安易な選択だったのではないかと思われると言うことなのである。(何か自分でも分かりにくい。笑)

ところでもうずっと以前からそうだったらしいのだが、須田の絵は、戦後日本の過剰な精神性忌避の風潮もあってか、閑散とした館内を見ても、華のない晦渋な印象の絵として人気は今一つとなっているように思える。
しかし他のフランスへの渡欧組のほとんどが、そうした見立てを単なる多様の調和といった大衆感覚的レベルで成そうとしたのに比べ、少なくとも須田は日本の雪舟や若冲といったヴァリエーション豊かな精神主義表現絵画の正統を受け継ぎ、メンタルなレベルでそれを成そうとした、スケールは小ぶりながらの本格派なのである。
佐伯や藤田らの、日本に帰国すると絵が描けないといって嘆いたデラシネ的状況が、須田には無縁だったのもそうしたことからなのであろう。
須田の絵を見ることは決して大げさではなく、日本とは何か、西洋とは何かの本質的な理解に通じていて、それを一部の人々らが何となくも直観しているからこそ未だ根強い人気があり、こうした展覧会が地道ながらも開かれ続けているのではなかろうか。
初めに述べた「懐かしさ」も、そうした深奥につながる日本人としての当方の無意識の一つの現れだったのかも知れない。

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