安井仲治展
愛知県美術館|愛知県
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真を写さないのも写真
2年ぶりに名古屋に来た。目的は名古屋市美の福田美蘭展だが、ついでに県美にも行ってみた。
やってたのは安井仲治という戦前の写真家の生誕120年回顧展だ。
写真展への興味はさほどないけど、予習してみると日本の写真史において重要な人物だとのこと。
たまには襟を正して写真というものに向き合ってみるかと会場へ入った。
安井は1920年代から40年代初めまで大阪を拠点に活躍したアマチュア写真家で、38歳で夭逝している。
実質的な活動期間はわずか20年程度だが、その間に撮った作品を見ると、およそ写真という表現手段でできうることほぼすべてをやってのけている。私にはそう思えた。
展示は年代順に全5章から構成されている。
大正末期から昭和初期の1章では当時の市井風景を主とした作品で写真家安井がデビューする。
安井はいわゆるシティボーイなので、都市風景は当然として、猿回しの様な地方からやって来た大道芸にも興味を示している。
「ソフトフォーカス」なるピンボケ写真も堂々と公表するあたりは、時代の最先端感に酔ってたのだろう。
第2章になると報道写真的なものも出てくる。メーデーのデモ写真がその象徴で、そこではブレが主役を演じてる。
これもまた、技法としてのブレを前面に押し出したとこがラディカルな写真の先駆者的リスペクトを受けている一因か。
でも、こういうブレやボケにしか注目しないM山D道みたいな勘違い崇拝者が後に出てくるのは、安井の本意ではなかったろう。
30年代になると「新興写真」という潮流が現れて、安井もその中核を担っている。当時としては珍しかった合成写真にもチャレンジしており、今回の展覧会ではその構成要素の原版が展示されていたのが面白かった。
3章は静物だ。ありふれたモノを撮るという行為であっても、安井の芸術志向は留まるところを知らない。
窓にとまった蛾を逆光で撮った作品では安井のドヤ顔が目に浮かぶようだ。
「半静物」というテーマもこの時代の安井作品の特徴だ。要するに何か別の異種物体を被写体に加えるという手法。
木製の椅子にネギの花を添えるとか、コンクリの階段に斧と鎌を置くとか。
この《斧と鎌》という作品、二つの道具の影までもが一体となって、あたかもアルファベットのBとKが描かれているような不思議な写像だ。
そんなSemi-Still Life が続く中、ポっと出てくる人物写真がいい。カメラの性能や現像・印画技術も向上して来たのか、あるいは安井の意図的なものか、非常にクリアな画質の人物像には、束の間癒されるというかスッキリした気分になる。
犬に寄りそう少女、フリチンの男児などに向けたレンズには、無機質じゃない温もりが感じられるいい写真だ。
第4章は「シュール」がキーワード。美術界の波が写真界にも押し寄せてきたわけだ。
絵画や彫刻のシュール感とはまた違ったシュール感が写真では表現でき、スピーディさという写真の特性を存分に発揮させているとも言える。
ただ逆に言えば、異質なものを並べて写すだけといういささかイージーな世界観。クラゲと葉っぱ写して一丁上がりだから(笑)
でも撮影者本人は真剣なんだよね。これも写真史においては不可避の流れということだろう。
当展でいちばん興味深かったのは安井の写真ヒストリーの終章でもある第5章だ。
ここではとにかく被写体だ。登場するのは曲馬団員、ユダヤ人、朝鮮人など、ある意味特異な眼差しを向けられる人々。
安井のレンズはそのいずれにも等価かつ真摯に向けられて、1枚の作品へと完成していく。
しかも出来上がった画像は、今でも色褪せないアートになっている。
時はすでにWWⅡに突入しており世情も逼迫感を増していた。そして日米開戦から3か月後に安井は38歳で世を去った。
死を覚悟した安井が最期に写真クラブ会誌に寄稿した文章が展示されており、その中に安寧な中でも危機感を、修羅の中でも娯楽を持つべしといったようなことを書いていたのが印象的だった。
今回、安井仲治という写真家に初めて出会えて良かった。
彼の作品や業績については、他に山ほどの論評や紹介文献があるので参照してほしい。
もちろん展覧会場でその作品を実際に見てみるのがいちばんだ。
そして何より驚くべきことは、彼の作品群は100年前のものだということ。
写真というツールで何ができるかということを問い、考え、実行し、さらなるステージへと歩み続けた男。
真を写すのだけが写真じゃない、虚であってもいいじゃないか、自らの心の目こそカメラのレンズなんだとの信念を持ち続けた男。
それが安井仲治だと思う。
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