
杉本博司展 本歌取り -日本文化の伝承と飛翔
姫路市立美術館|兵庫県
開催期間: ~
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杉本博司の本歌取りを鑑賞して
杉本博司はこれまでにも「本歌取り」について度々説明している。
和歌の用語である「本歌取り」とは、古歌の一部を取り込み、新しい歌を詠むことで、元の歌に含まれる要素を踏まえて、より深いものにすること。同時に古歌の良さを味わうことでもある。前の時代の良いところを取って、現代の時代精神にあった美意識を付け加えていくことだと言う。
古美術商の経験もあり、日本の骨董だけではなく、世界中の古美術品が放つ霊性を取り込み、新しい現代美術作品を生み出してきた。
杉本はかつて次のように言っている。
「杉本コレクションは、その日本的霊性が形になっていくということに対して、大きな重点が置かれていることは確かです。」(『歴史の歴史 杉本博司』2008年新素材研究所 302ページ)
実際に、所有する古美術品やコレクション(重要美術品から、もと国宝の一部分だったもの)を実際に作品にし、また作品の一部に取込むところに凄さがある。そんな杉本博司の新作が多く並ぶ興味深い展示である。全ての作品に、それぞれの“いわく”があって、正直「どれも凄いのよ」なのだが、今回の本歌取り展を象徴する作品として、私がとりわけ「霊性」を感じた作品は次のものだった。
《天橋立図屏風》(2022)と本歌、伝能阿弥《三保松原図》(室町時代)
《月下紅白梅図屏風》(2014)と本歌、尾形光琳の《紅白梅図屏風》(江戸時代)
《立岩図屏風》(2022)と本歌、俵屋宗達の《松島図屏風》(江戸時代)
《放電場図屏風》(2022)と本歌、俵屋宗達《風神雷神図屏風》(江戸時代)
《尹大納言絵巻断簡》(鎌倉時代)杉本表具と五島美術館所蔵のものがピタリと合うこちらのみは本歌取りというより「本歌寄せ」だという
杉本の「諧謔性」も愉しめる要素だ。
硝子茶碗《泉》(2014)と本歌、デュシャンの《泉》
《廃仏希釈》(神代〜現代)は、デュシャンの「与えられたとせよ」を本歌として「希釈されたとせよ」という
《着服》(2022)は、本歌取りは着服でもあるとして、愛用上着のポケットを表具とする
《遺偈》(2002)会場の最後を飾る杉本の遺偈。解説文つきで展示されている
その他にも《春日若宮神鹿像》(鎌倉時代)など春日美術、姫路と書写山円教寺にまつわる《性空上人像》(2022)と《性空上人坐像》(平安時代)、《神男女狂鬼》(2022)と能面コレクション、尾形光琳の《紅白梅図屏風》(江戸時代)を本歌とする《月下紅白梅図屏風》(2014)は、夜の紅白梅図としてモノクロ表現され、須田悦弘の梅の花びらが鮮やかだ。
須田作品は他にもあって、補作や作品に添えられる形で、会場のあちらこちらに現れる。
鑑賞レポートとして、作品そのものを説明し過ぎることを野暮と感じながら、せめて会場の雰囲気や、杉本博司の作品世界を伝えたいと思いここまで書き、そして鑑賞時のことを思い出している。
私は、ほの暗い会場を一巡したのち、ショップで本展図録を買い求めた。図録にある杉本自身が書いたという解説文を読みながら二巡目を楽しんだ。展示作品ごとの本歌作品への思いを巡らし、目の前にある作品は、本歌とは異なるどのような視点なのか、であった。図録の冒頭には、以前、杉本が書いた本歌取り論がある。以前の文章は杉本の著書『現な像』(新潮社2008年、45〜57ページ「本歌取り」)で読むことが出来る。『現な像』の別章で、私は杉本が初期から現在に至るまで続く思考というか嗜好というのか、指向する言葉を見つけたので、ここに書いて結びとしたい。
「そう言う私自身も自らの意思で海外に住み、現代美術の最先端の潮流を汲みながら、作品制作を続けている。そして自らもその潮流の源流の一つになるべく、研鑽を積み、創意工夫を重ねて、現代という不可思議に美術を以て対峙しているつもりである。私にとっての西洋の咀嚼とは、自らの日本的霊性の発見であり、またその日本的霊性の西洋文脈での再提示が私のアートとなり得ていると思われる。」 『現な像』(新潮社2008年、127ページ「利休・モダン」)