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栃木における南画の潮流 - 文晁から魯牛まで

栃木における南画の潮流 - 文晁から魯牛まで

栃木県立美術館|栃木県

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ざわざわ、もぞもぞしている自然

何故だかわからないのですが、なんとなく見に行かなければいけない気がして、緊急事態宣言明けの日曜日、雨の中レンタサイクルを跳ばして最終日に見に行きました(余談ですけど宇都宮は公営のレンタサイクルが1日100円で借りられるのでお勧めです)。

江戸絵画全般が好きなのですが、南画山水には抵抗感があるというか、絵にすんなり入り込めない。理由は「詩書画一体」のハードルの高さもさることながら、それだけでもなくて。なんというか、見た目がざわざわして落ち着かない。ぎこちなく折れ曲がり膨れ上がる岩山。身じろぎするような木々。執拗に描かれる葉の一枚一枚。画面全体が、もぞもぞとうごめいているようにも感じられます。

しかし今回、これまた偏執的に描き込まれた近代南画家による鉛筆スケッチのキャプションに、“ここには「気韻生動」を写そうという意思が見られる”と書かれているのを見つけて気が付いたのです。たまたまいま読んでた『禅の教室』という本の話と「気韻生動」が結びついて、南画が何を描いているのか理解できた気がしました。

たぶん南画は「生成し脈動し続ける生命や自然」を描いている。それは、たとえば南宋水墨画のような人間が理想とする「美しく静止した自然」ではない。南画は、そういう見る者の自然に対する身勝手な期待には添わないのだ。だから、見る者に対してよそよそしい「ざわざわした自然」に見える。

ところで、よく誤解されていますが、坐禅は「澄み切った無の境地」を目指すものではないらしいです。この私の心身は否応なく世界とつながっており切り離すことなどできない。私に世界が流れ込んできては、流れ出していくその運動を、自分と世界の「縁」をありのままに受け入れること、それが坐禅の目的なのだそうです。

とめどなく湧き上がっては消えてゆく雑念、自分の身体に重さを与える地球の重力、それを支えている床と坐蒲、吸い込み吐き出される息の流れ等々、自分の心身の内と外のはたらきを、つながった一体のものとして感じつつ理解することが坐禅の目的なのだとか。

話を戻すと、南画は「胸中山水」を描いたものと言われますが、その文人の胸中の自然は、私たちのような俗人が身勝手に思い描きがちな「清らかに澄み切った自然」ではないのでしょう。そのような美しく静止した自然ではなく、私の周りに否応なく存在し、生成し脈動し枯れゆく自然を描いている。南画はそのような「ざわざわ、もぞもぞしている自然」を、私と必然的につながったものとして受け入れよ!と語っているのだと思います。それはニーチェのいう「在るところのものに成る」ことと同じかもしれません。

――というわけで今回、気韻生動のキャプションを見つけるためだけに宇都宮まで呼ばれたようだ。

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