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企画展 生誕100年 石元泰博写真展

企画展 生誕100年 石元泰博写真展

高知県立美術館|高知県

開催期間:

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「生誕100年 石元泰博写真展」を見る

 「生誕100年 石元泰博写真展」(高知県立美術館・1/16~3/14)。東京オペラシティ アートギャラリー+東京都写真美術館からの巡回。
 石元泰博(1921―2012)はアメリカ・サンフランシスコ生まれの写真家。3歳の時両親の故郷である高知に戻り、高校を卒業するまで高知で過ごしたから、高知が日本での出身地と言える。生前の2001年にここ高知県立美術館で「石元泰博写真展1946ー2001」が開かれたことを受け、2004年、石元は34,753点のプリント作品、約10万枚のネガフィルム、約50万枚のポジフィルム、書籍・写真集・カメラ機材などの資料及び著作権を一括して高知県立美術館に寄贈。2013年、高知県立美術館に石元泰博フォトセンターが発足する。今回は今年2021年が石元の生誕100年ということで昨年東京都写真美術館が大回顧展を企画するも、写真美術館の展示室だけではスペースが足りず、東京オペラシティ アートギャラリーとの2会場に分けての展覧会となったもの。巡回高知展はその2展を網羅した大回顧展。見るならこっちでしょう、ということで高知訪問と相成った。
 美術館駐車場に着いたのは開館9:00の約30分前で、既に数台の車が停まっていたのだが、開館して中に入ったのは我々家族2人だけだった。会場は2階の第2展示室・第1会場から。カメラとの出会い。1921年、アメリカ・サンフランシスコに生まれる。アメリカ籍だが、両親は日本からの農業移民者。1924年、両親の故郷・高知県高岡町(現・土佐市高岡町)に移る。カメラとの出会いは小学生の時お菓子の景品で当たったボックスカメラ。1935年、高知県立高知農業学校を卒業。1938年、近代農法を学ぶ為に単身渡米。第二次世界大戦の為、1942年、コロラド州のアマチ収容所に収監される。この収容所時代にカメラの基礎技術を覚える。1944年に解放され、シカゴに移住。ホト・デアボンというカメラクラブに入会する。展示はまず泉正弘氏が1992年に撮影した石元の肖像写真があって、収容所時代のアルバムの見開きから。収容所を出てのホト・デアボン時代は幾何学的オブジェを切り取った作品に特徴があるようだ。6点、資料6点。
 ニュー・バウハウス。1948年、シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス、後のイリノイ工科大学)でデザインや写真技法を学ぶ。成績優秀な学生に与えられるモホイ=ナジ賞を2度受賞。1952年、同校卒。展示はドローイング4点から。ニュー・バウハウスでは専門課程に分かれる前最初の1年間は共通基礎課程で、これはその時描かれたもののようだ。写真作品はシカゴの街や人々、特にこども、を切り取ったものなど。当時のニュー・バウハウスの校長・モホイ・ナジは、光を造形素材の一つと捉える表現追求を理念とし、一方で写真課長のハリー・キャラハンは路上に出ることを勧めており、石元もそれらを実践した節がある。ドアの前に裸足で立つ少女の作品『シカゴ こども』(1948-52年)が個人的には好き。雑誌「ライフ」ヤング・フォトグラファーズ・コンテスト入選作品『チルドレン・イン・ストリート・ウィザウト・ネーム』(1951年)が5点。資料としてパスポートや卒業証書などの展示もある。51点、資料4点。
 桂離宮。1953年、来日。桂離宮と出会い、プロとしての本格的なスタートを切る。展示はモノクロームで捉えられた桂離宮の連作。敷石や垂直線と水平線が強調された建物が特徴的だ。小生も桂離宮に行った折、同じような構図で捉えようと無意識にしたものだが、そうか、石元の作がどこか記憶にあってそれに影響されてのものであったか。島には掲載雑誌。21点、資料2点。
 東京1950ー70年代。1954年、東京で初個展。1956年、川又滋子と結婚。1958年、初の写真集『ある日ある所』を発表。ここの展示は1950年代から70年代の東京のストリートスナップを中心に。50年代の作品はまだ戦後間もない路上風景を捉えており、やはりここでもこどもに向けられた作品が多い。月光仮面の仮面を被り、マントを羽織った子供『東京 こども』(1953-57年)が良い。造られ始めた東京タワーの下層の部分『東京 街』(1958年)は今回の図録の分厚い帯の裏面に採用。交差点内の車と人を上から捉えた『東京 街』(1964-70年)がその表紙に採用された作品だ。良い。島には資料として写真集『ある日ある所』があり、その横に内容が判るスライドショーが流されていた。56点、資料12点。
 シカゴ,シカゴ。1958年、在留資格が切れることもあって妻と渡米。シカゴの街並みを撮影する。1961年、再来日し、シカゴ滞在時の作品を発表。1969年、写真集『シカゴ、シカゴ』を刊行する。この章はこのシカゴ滞在時の作品を紹介。東京都写真美術館での東京展でのチラシに採用された『シカゴ 街』(1959-61年)はここにある。島には写真集『シカゴ、シカゴ』やカメラ5台など。カメラはパンフレット、リンホフテヒニカ、ジナー、ローライフレックス、ハッセルブラッド。22点、資料9点。ここまででも裕に普通の展覧会1本分以上のボリュームがある。
 第3展示室・第2会場へ。近代建築。1962年、東京綜合写真専門学校の教授に就任。桑沢デザイン研究所、東京造形大学などでも教鞭を取る。こちらの展示室最初の展示は石元の建築写真課としての仕事の紹介。『広島平和会館原爆記念陳列館』(1953-55年)が一番古いもののようでで、建物の周りはまだ公園として整備されていない。今はもう存在しない大阪万博のパビリオンや、使い道の変わってしまった大分県立大分図書館(現・アートプラザ)を写した作品などもある。『香川県庁舎』(1958年)や『牧野富太郎記念館』(1999年)があるが、時間があればこの後行ってみたいもの。島には関連書籍。29点、資料4点。
 日本の産業。1964年、ニューヨーク万博が開かれ、日本館の壁画写真『日本の産業』を担当する。この章はその作品を紹介。造船所や自動車生産ラインといったいかにもといったものばかりではなく、『多摩ニュータウン』(1961-64年)や『泥とゴミ』(1960年代)といった作品もある。12点。
 周縁から/歴史への溯行。1969年、日本国籍取得。この章は1960年代以降に地方を取材した際の仕事の紹介。展示されていたのは北海道、青森、秋田、石川それに大分。国東紀行の内の2点がこの展覧会始めてのカラー作品であった。島は雑誌と写真集。13点、資料2点。
 両界曼荼羅。1973年、東寺の国宝・両界曼荼羅を取材。1977年、西武美術館で「石元泰久写真 両界曼荼羅」が開かれ(写真集『伝真言院両界曼荼羅』も刊行)、密教ブームの火つけ役となった。展示はその展覧会の一部再現。黒い壁三方で囲われたスペースに、大型パネルの組合せで紹介されている。一人その空間の真ん中に立ち、曼荼羅世界に身を浸す。25点。
 桂離宮1981ー82。1981年、昭和の大修復を終えた桂離宮を再び撮影。1983年、写真集『桂離宮 その空間と形』を刊行。この章はその作品の紹介。1953年作品と比べると、視点が建物内部に入り、真新しい襖や障子を捉えたものが多い。5点。
 ポートレート。雑誌連載などの機会に写されたポートレート作品の紹介。高倉健と藤純子、三島由紀夫、唐十郎と李礼仙、石原慎太郎、四谷シモン、横尾忠則などと一番時代を感じさせる作品群だ。東京オペラシティ アートギャラリーでの東京展とこの高知展でのイメージ・アイコンとして採用された『セルフ・ポートレート』はここにある。でもこの作品は石元の代表作ではないように思う。9点。
 イスラム 空間と文様。1975年、雑誌「太陽」の取材で南米、中近東、北アフリカ、オーストラリアを撮影旅行。この章では中近東での作品の紹介。カラー作品で美しいのだが、ラムダプリントによる紹介の為とても小さい。24点。
 かたち。日本の固有の日用品のかたちを収めたシリーズ。草履や工業製品、小さな玩具などを真っ直ぐに写す。白黒なのが、かえってシャープさを増しているようだ。11点。
 食物誌/包まれた食物。1982年、雑誌「アサヒカメラ」に『食物誌』を連載。スーパーに並ぶ生鮮食料品をカラーで収めた。壁の展示は2点しかないが、島に雑誌「アサヒカメラ」が6点ある。全てに焦点が合っている。2点、資料6点。
 山の手線・29。山の手線を8×10インチという大判で撮影したもの。山の手線は当時29駅あった。1980年代前半のものがほとんどなのだが、それですら今はもう失われてしまった風景たち。『東京 山の手線・29 (上野)』(1981-89)年に写る女子高生は聖子ちゃんカットで、時代を感じさせる。12点。
 東京1980ー2000年代。東京を捉えた1980年代以降の作品。『東京 街で見たもの』(1980年代)には破れた中曽根康弘のポスターが写ったものがある。島には企業広報誌6点に、カメラ7台。カメラはディアドルフ、ライカ、キヤノンで、EOS-1(デジタルカメラ)もある!6点、資料13点。
 伊勢神宮。1993年、伊勢神宮で第61回の式年遷宮が行われ、石元はこれを撮影。1995年、写真集『伊勢神宮』を刊行する。この章はその時の作品の紹介。13点。
 刻。2004年、写真集『刻』刊行。これはうつろい変わりゆくモチーフを捉えたシリーズ。落葉や空き缶や雲などで、モチーフ1つにつき2点ずつ展示されている。12点。
 シブヤ、シブヤ。2000年代、石元が齢80を超えて、なおも挑戦したシリーズ。渋谷のスクランブル交差点に出ての撮影だが、人の背中や腰を捉えた作品が多い。13点。
 多重露光。この展示室最後の章は1950年代から制作され続けていた、カラーフィルムの多重露出作品。石元の作品は白黒のものがほとんどだったので、これだけは別世界の趣きがある。パンチングメタルを用いたものがあり、島にはそのパンチングメタルや多重露光作品、広報誌や雑誌などの資料展示。12点、資料21点。
 ここまででまとまりも良く、もう十二分すぎるくらいの量なのだが、更に第3会場。いつもは石元泰博展示室として石元の作品を常設展示しているこの空間に番外編 ヤスとシゲル―ふたりのあゆみ、の展示。シゲルさんとは石元の妻の滋子さんのことで、彼女は石元のアシスタントやプロデューサーを務めた。入口には石元の略年譜があるにも関わらず、展示室内3面の壁は2人の巨大な年譜。中央には島で資料展示。川又滋子関係資料。日本女子大学の卒業証書や草月会でのいけばな作品の写真など。資料10点。結婚関係資料。結婚報告葉書や合衆国の結婚証明書。披露宴パーティの領収書まで展示してある。資料13点。工芸コレクション。滋子さんのコレクションだろうか?十三やのつげの櫛(これを写した石元の作品も存在する)やティファニーの小壺など。資料9点。展覧会の印刷物など。案内はがきやチラシなど。資料9点。広告の仕事など。日本電気硝子やCanon F-1などの広告。資料4点。ふたりのアルバムより。スナップ写真が主かな。資料10点。泰博・滋の掲載記事など。雑誌などの切り抜き。資料8点。暗室で愛用したもの・仕事の道具など。イーゼルマスクやタイプライターなど。資料11点。リビングの再現。ここは通常時も石元家のリビングの再現コーナーがある。カウントするのは難しいのだが、キャプションのあるもののみをカウント。資料3点。合計資料77点。1983年、紫綬褒章受章。1993年、第四等旭日小綬章受章1996年、文化功労者に選ばれる。2005年、高知県文化賞受賞。2012年、逝去。享年90。正四位、旭日重光章が追贈される。2階ロビーではインタビュー映像『石元泰博を語る』(語り手;飯沢耕太郎・写真評論家、原直久・写真家、内藤廣・建築家、畠山直哉・写真家。インタビュアー;森山明子・武蔵野美術大学教授)、1階のシアタールームでは『ザ・チャーチ・オン・マックスウェル・ストリート』(1951年・1997年音声追加・7分28秒)と『キナカリグラフ』(1955年・4分30秒)が上映されていたが、子供を連れていたのでこれらはパス。前者の映像はユーチューブで公開されていたので、九州に戻ってから視聴する。
 以上354点、資料156点。何故か少しだけ展示替えがあって、全部見ると359点、資料156点。写真家・石元泰博の仕事の全貌を紹介する、とんでもないスケールの展覧会。石元の出身地にある県立美術館で、かつ彼の作品等の一括寄贈先で開かれている生誕100年の節目の展覧会と、おそらくこれ以上のものは望みようがないものと思われる。東京展2展を見ていない人は必見。今年のベスト1展覧会の可能性も高い。1階のミュージアム・ショップで石元泰博関係のグッズとしては図録、写真集、ポスター、ポストカード、クリアファイル、メモ用紙、一筆箋、マグネット、ハンカチ、日本酒の販売。日本酒は地元の酒蔵の特別ラベルのもの。図録と妻への土産としてハンカチを購入する。
 これまで高知県立美術館を訪れたのは2012年の「大絵金展」、2018年の「岡上淑子コラージュ展」と今回の3度だが、いずれもとんでもない規模の展覧会。恐るべし、高知県立美術館。

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