「美術としての洞窟壁画」小川勝より

「美術としての洞窟壁画」小川勝より
「発見者のサゥトゥオラは発見翌年の1880年に報告書を刊行し、洞窟の内部からは1万年前以降の遺物が出土していないという発掘結果から、洞窟壁画は1万年以上前の制作であると論じたが、その正当な主張は、1881年にポルトガルのリスボンで開催された国際学会で、満場一致で否定された。」
「第一の理由は、ビゾン(野牛)などが実物に極めて似た迫真的な動物像だったことであり、このような現実に近い表現は、古代ギリシャで始められたデッサン術などの特殊な技巧が必要であり、到底1万年以上前の人間が作り上げたとは考えられない、という一方的な思い込みだった。」
「旧人・新人交代劇のとらえ方」西秋良宏より
「新人と旧人の学習能力は生得的に違っていたと言ってよいかといえば、そうはいかない。まず注意すべきは、それらの言説が、同じ時代の考古学的証拠の比較に準拠したものかどうという点である。」
「5万年前以前の中期旧石器時代のネアンデルタール人の物質文化と、それ以降の後期旧石器時代に花開いた洞窟壁画や骨角器などの現世人類の物質文化を比較して、違いが説明されていることがほとんどなのである。文化は前代の蓄積にもとづいて変遷することを考えれば、そうした比較が妥当でないことは容易に理解できよう。例えば、縄文時代の文化進化の速度が令和時代より遅かったからといって、二つの時代における日本列島人の認知能力の違いを論じることは無理筋だというのと同じである。」
「中期旧石器時代(中期石器時代)においてはホモ・サピエンスの文化進化速度はさほど大きなものではなかったらしい。」
「ネアンデルタール人集団においては地域文化の発達がなかったかというそうではないことが確認できた。」
「ネアンデルタール人遺跡で貝器や骨角器が見つかっていること、着柄石器や繊維を使った道具製作等々、複雑な工程をふむ道具作りを示唆する証拠がみつかっていることから新人固有の行動ではないとの認識にいたった。」
「原人の心」馬場悠男より
(現代人の心)「仲間同士の共感を増幅させ、外部に向かって攻撃性を発揮することもある。また現実世界を修飾し、虚構の世界を脳内に生み出し、あたかも実体であるかのように振る舞うこともある。」
「文字の発達はごく最近の付加的な変化に過ぎない。」
「10万年前の新人が現代人と同じ心を持っていたことは明らかである。たとえば、南アフリカのブロンボス洞窟の遺物は、そこの新人が赤色顔料で化粧をし、真珠色の貝殻の首飾りをしていたことを示している。自分のお洒落が、他人の心にどのような影響を与えるかを認識していた。また、ネアンデルタール人も首飾りをしていたことがわかり、高度の人間らしさは新人だけではなく、旧人にも備わっていたと言える。」
「原人では、脳の拡大とともに、石器技術の進歩、火の使用、肉食の常態化などによって、咀嚼期間が退縮していった。そして頭蓋部前部の短縮がある閾値を超えたときに、喉頭が下降して言葉をしゃべるようになり、旧人に進化したと考えられる。」
「原人は、およそ150万年間にわたって脳を2倍以上も拡大し、他社と自身を一体化する深い共感性を身に付け、対称形ハンドアックスなどに象徴的意味合いを見出した。しかし、言葉を持たなかったので、自らの深い思考や共感を他者に伝達できず、修飾することもなく、虚構を創り上げることもなかった。」
「縄文農耕論の現在」小畑弘己より
「人が栽培を始めても、植物が栽培化徴候を発露するまでに長い年月を要する」
「実際の考古学的な証拠からみると、その速度は非常に晩い。」
「種子の肥大化に関しては、南インドにおけるリョクトウの場合、栽培行為の開始から1000〜2000年遅れる」
「近東のレンズマメやエンドウの場合も種子の肥大化は鋤の出現する青銅器時代後期以降であり、栽培行為の開始から3000年〜4000年遅れている。」
「東日本縄文文化のレジリエンス」羽生淳子より
「北上山地に位置する岩手県宮古市閉伊川上流域で行った聞き取りでは1950年代後半(昭和30年代前半)に水稲耕作が本格的に導入する以前には、在来知にもとづいた食と生業の多様性が顕著であった。」
「何が歴史を動かしたのか 第1巻 自然史と旧石器・縄文考古学」春成秀爾編より
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