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「増補改訂 境界の美術史 ―「美術」形成史ノート」 北澤憲昭より

「美術史の源流は、原始や古代にあるのではなく、近代にこそある。」

「「美術」という概念は(中略)明治時代になって西洋から受容されたものであり、それ以前には「美術」という概念は日本には存在しなかったからである。」

「とはいえ、むろん、たとえば原始時代の造形物を「美術」とみなすことは可能である。」

「しかし、厳密な方法意識をもって歴史研究に携わろうとするのであれば、原始時代に「美術」という概念が存在せず、したがって、それらの造形物は「美術」として作られたものではないということを、まず、しっかりとわきまえておく必要があるだろう。」


(第三回内国勧業博)「この回において、「美術工業」という枠が設けられることも注意を引く。これは、現在のいわゆる「工芸」にほかならない。」

「このような再編を通じて絵画を筆頭に〈統合〉される今日の美術の体制が、ようやく歴史の表に登場し、そのなかで工芸と書はヒエラルキーの末端に位置づけられることになる。」


「1873(明治6)年のウィーン万国博覧会に参加するに際して明治政府が作り出した官製訳語「美術」は、当初、いまでいう芸術の意味で用いられたのであるが、この語は誕生早々、今日の意味に、つまり視覚芸術の意味に絞り込まれてゆくことになる。」


「西洋人が日本絵画というものに関して抱く表象が、「日本画」の起源(のすくなくとも一つ)であり、それはオリエンタリズムの発想に通ずるものであったと考えられるわけである。このことは、欧米におけるジャポニズムの動きを、フェノロサが、ほかならぬ日本人に向かって吹聴したことのなかにも見て取ることができる。」

「日本人にかわって日本絵画の価値をほかならぬ日本人に対して顕彰する僭越は、オリエンタリストの発想以外の何ものでもない。」

「フェノロサにとっての日本絵画が一つの表象にすぎないことは、国民的な広がりをもっていた南画=文人画を、レッシング流の詩画限界論の立場から批判し、みずからの「日本画」概念から切り捨ててしまったことにも示されてもいる。」


「歴史を超えて不変であるような「日本」など、もちろんどこにも存在しない。日本文化の大きな枠組みというものは想定できるとしても、それとても決して不動のものではありない。しかも、それは、東アジアという大きな枠組みに組み込まれるものであるばかりか、東アジアという枠組みもまた、歴史的にも地理的にも相対的なものにすぎない。もし、そこに永遠の相をみるとしたら、それは幻影でしかない。だから、永遠の日本という壁にぶら下げられた「日本画」の在り方は幻影もしくは虚妄にすぎない。」


「ウィーン万国博参加を機に翻訳後として西洋からもたらされた「美術」という語は、当初は諸芸術を意味していたのだが、やがて視覚芸術の意味に限定されるようになり、その結果、絵画・彫刻・工芸のなかで最も純粋に視覚的な表現媒体である絵画が、それを代表することになったのである。」

「生活や産業にかかわりをもつ工芸は、視覚芸術というにはあまりにも複合的であり、それは、触覚と本質的なかかわりをもつことで視覚と抵触するのだ。」

「ところで、「美術」という翻訳語は、その初出にあたってみると Kunstgewerbeーすなわちアプライド・アート、おおづかみにいえば現在いうところの「工芸」を意味するドイツ語に対応していたことがわかる。つまり、翻訳語としての「美術」は、工芸を指す言葉として登場してきたわけであり、明治初期の美術は、実際に工芸を中心に展開していったのだった。」

「「美術」奨励の大目的は、いわゆる工芸の改良にあり、また、「美術」の機軸をなすのは、いわゆる工芸であるとする「美術」観が、こうして官僚をはじめとする支配者たちのあいだに定着することになったのである。」

「こうした官の「美術」観の背後には、江戸時代までに形成された造形観も控えていた。江戸時代以前にあっては、衝立、屏風、それから陶器など、いわゆる工芸品が重要な絵画の場所であり、鑑賞本位に傾く掛け軸にしても、たんに鑑賞性だけをめざすものではなく、表装まで含めて床飾りに供されるものだったのである。」


「1980年代から2000年代前半にかけて、日本では、国立、公立、そして私立の美術館が全国に次々と開設されていった。これは前代未聞の光景であった。1877年の内国勧業博覧会で、「美術館」を名乗る最初の建物が建てられてからおよそ100年、同時代美術のための最初の恒常的な展示施設「東京府美術館」が開館しておよそ70年にして「美術館の時代」が到来したのである。」

「相次ぐ美術館の開設は、当然ながら美術界に大きな影響を与えずにはいなかった。美術館が、ジャーナリズムやマーケットを従えて美術界を制覇することになったのである。」

「美術館の企画に携わる学芸員たちは、展覧会と言語活動とによって新たなトピックスを次々と打ち出し始めたのである。」


「美術」形成史関連年表より

1889(明治22)

1月 改正徴兵令公布。国民皆兵体制へ。

2月 東京美術学校開校。他の官立学校同様男子のみ入学を許された。

同月 大日本帝国憲法発布。皇室典範制定。「第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」


「増補改訂 境界の美術史 ―「美術」形成史ノート」 北澤憲昭より


https://bookmeter.com/books/21511544


プロフィール

松山賢
岩手県御所野遺跡近くで生まれる。
湯舟沢遺跡すぐ横で育つ。
横浜市三殿台遺跡そばに在住。
京都で日本画制作を経て、
土器、人形、彫刻をつくりはじめる。
最近は油彩画、野焼きの陶彫を制作、発表している。
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