「日本の裸体芸術 刺青からヌードへ」宮下規久朗より

「いかなる時代のヌードも、人間の根源的な性的欲望に支えられてきたのであり、エロティシズムこそがヌードを流行させ、延命させてきたといえるだろう。」
「クラークの先駆的な研究はその後、ジェンダー的視点や写真以降の表現への視野を欠くなどとして厳しく批判された。
「クラークのいう本能とはあくまでも男性のものであり、西洋のヌードの主流が女性裸体像であったのは、それが男性の欲望の対象であったためであるという事実が強調された。」
「ヌード芸術の受容をめぐっては、無知で横暴な政府と先進的で革命的な芸術家の対立という図式が繰り返し語られてきた。
しかし実際は、芸術家が権力と戦ってヌードの地位を高めたというよりも、西洋人の目を気にして裸体習俗を禁じた政府が、やはり先進国では一般に認められているヌード芸術を認めざるをえず、一般人の目にふれさせないものの、特別室や美術学校ではこれを許したという事情に過ぎなかった。そして、社会の性意識や羞恥心の推移とともにこれを緩和していって現在にいたっているのだ。」
「黒田清輝が《朝妝》を堂々と発表したことによって、社会に問題を投げかけたのは事実であり、その意義は大きいが、その後、裸体画への当局の規制はかえって強まったのであり、彼はそれに対してまったく無力であった。」
「(魏志倭人伝によると)弥生時代には日本の男性はみな顔にも体にも刺青をしていたらしい。」
「その後『日本書紀』には刑罰として刺青を罪人に施した記事があるが、その後、刺青はずっと記録から消えている。数百年の間、日本人は刺青という風習を忘れており、「刺青絶無時代」であった。刺青のような身体加工だけでなく、この長い時期ずっと装身具を身につける習慣もなかったらしい。」
「一方、奄美以南と琉球、アイヌの文化圏では、この間も刺青の習慣は存続していたと推測されるが、七世紀以前に日本で一般的だった風習が周縁部に追いやられたものと見ることもできる。」
「刺青は江戸初期、17世紀前半の寛永ごろから徐々に復活し、享保5年(1720)、八代将軍徳川吉宗がこれを刑罰として復活させた。」
「一八世紀後半の明和・安永期になると、侠客の間に刺青を誇示することが目立ってきた。」
「玉林晴朗氏は、義侠心に富み、痛快無比な活躍を繰り広げる『水滸伝』の豪傑たちに江戸の人たちが共鳴し、自己もその豪傑であるかのごとく振る舞うという無邪気な気持ちから刺青を彫るようになったと推測する。」
「日本の裸体芸術 刺青からヌードへ」宮下規久朗より
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