芸術と闘う作家の視線を追う/アーティゾン美術館「写真と絵画—セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」
4月29日からアーティゾン美術館にて開催されている「写真と絵画—セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」展。
シリーズ「ジャム・セッション」の第3回目にあたる本展は、両写真家がその活動の初期より関心を寄せ続けていたセザンヌの作品を起点に、現代の写真作品と絵画の関係を問うものとなっている。
全6セクションから構成されており、内4つのセクションでは新作を含めた両写真家の作品と石橋財団のコレクションが共に展開され、ポール・セザンヌのセクション、雪舟のセクションでは3者の共演が行われる。
それぞれを比較することで、作品のモチーフや作家のねらいをより明瞭に模索できる試みだ。
19世紀。写真という装置の誕生と時を同じくして、絵画は大きな変革を繰り返してきた。その起点ともなる印象派の存在はあらゆる芸術家に影響を及ぼしたが、彼らのモチベーションには写真の存在が少なからず関わっていたという。美術における写実的な役割を写真が担うことにより、絵画の世界では新たな表現方法の探求がはじまったのだ。
写真という芸術。絵画という芸術。
もしもこれらがただ漠然と過去を記録したものに過ぎないのだとしたら、これほどまでに人々が熱狂しているはずがない。
芸術とは我々に与えられたもう一つの風景である。
過去と未来、今この瞬間までもそこには内包されており、錯綜する地点へと意識を向けることではじめてもう一つの風景と対峙することができる。その風景を探すところにこそ、写真や絵画を見る面白さがあるのではないだろうか。
鑑賞の楽しさに触れながら、そして作家の持つ鋭い視線を追いながら各作品を掘り下げていきたい。
セクションⅠ「柴田敏雄—サンプリシテとアブストラクション」。本セクションは画面いっぱいに広がる水紋から始まった。壁面を流れる水の一瞬が、まるで射止められたかのように静かに鎮座している。
柴田敏雄の《山形県尾花沢市》である。
隣には大胆なパステルの筆触が印象的な藤島武二の《日の出》が展示されている。それらをじっと見つめるにつれ、日常の流れと作品の流れがつなぎ直されていく感覚に陥っていく。
藤島は「画面から不要なものを削ぎ落としていき、最後の最後まで残ったものこそが描くべき要素である」と後進の画家たちに伝えていた。いかなる複雑性をも、もつれた糸をほどくように画家の力で単純化するということが画面構成の第一義であると。
これは柴田敏雄の作品全体に通底しているモチーフと重なるところがある。柴田もまた、画面から無駄な要素を最大限削ぎ落とすことに挑戦し続けていたのだ。
柴田の写真には自然と人工物が頻繁に登場する。
自然と人工物。
しばしば対立的な存在として語られる両者だが、はたしてこれらは相反するものなのだろうか。
対象を撮る。対象と相対する。そこにあるのは、矛盾とも捉えかねず想像するには大きすぎる、認識との闘いであると思う。
柴田の写真から伝わるのは溢れんばかりの均衡への興味だった。見る者が緊張感を覚えるような、強度を持った視線。瞬間的に捉えられた対象のイメージを膨らませることにより、我々はシャッターが押された地点へと想像を拡げることができる。
他にも本セクションでは、石橋財団コレクションからアンリ・マティス《コリウール》、ピート・モンドリアン《砂丘》等が展示されている。これらもまた、色彩それ自体の表現力を信じ、単純化が目指されていた作品だ。
彼らの作品と比較することで、より深い位置で柴田敏雄の写真と対峙してほしい。
セクションⅠから足を進めると、続いてセクションⅡ「鈴木理策—見ることの現在/生まれ続ける世界」の展示へと移っていく。
鈴木理策は2000年から2002年にかけて「サント・ヴィクトワール山」のシリーズを撮影したが、その撮影現場において「自身がカメラを使って撮る」のではなく「カメラと二人で撮る」感覚があったと言う。
レンズに写る光景は、自身が見ていたものよりも鮮明に世界そのものを写し出す。常にうつろう水や光、本セクションではそのような「見る」という行為を再確認していくような作品が展示されている。
中でも印象深い作品は、ギュスターヴ・クールべの《雪の中を駆ける鹿》と鈴木の雪景写真であった。
「常にうつろう」という点において、雪景ほど奥が深いものはないだろう。
足を進めていく中でふと入り込む鮮やかなまでの白を目にし、歩を止めて息を呑む。
一見真っ白に思える光景にも白の微妙な差異があり、それをいかに白い紙の上に表し得るかという点に、鈴木は強い関心を抱いていた。
写真において、白という色はグレーによって表現されることが多い。白そのものを用いることはほとんど印画紙に立ち戻ることを示しており、それは写真が写真たり得るかという議論へと発展していく。
しかし鈴木はありのままを写し出す。目に痛いほどの白を前に、鈴木が選んだ作家こそがギュスターヴ・クールべだった。
クールべの《雪の中を駆ける鹿》の隣には、鹿の目線が感じられるような写真が並べられている。黒い木枝の間から美しい雪景が覗き、たちまち我々の視点を登場人物の見る白の在り方へと引き連れていく。
写真と絵画の接続という体験において最適な展示といえるのではないだろうか。
写真は断片的で、そこにあらわれているのは、時間的にも空間的にも、撮影者が接した世界のほんの一部である。しかしそこには人間が見落としてしまうような細部、いわば潜在的な世界が含まれている。断片的で、過剰。写真のそうした性質に、鈴木は魅力を感じている。
自らの気配を消し、野生動物のように接近する。
二人の作家が世界そのものへ近づこうとした道筋を、我々は目の当たりにする。
さて、タイトルにも冠されたセクションⅢ「ポール・セザンヌ」である。
ポール・セザンヌは晩年、「自然に基づいて絵を描くことは対称を模写することではない。己の感動を現実化することである」と述べた。そのような制作への姿勢は彼の作品そのものによく表れている。自分自身を感光板にすることで自然の持つ強度を手に入れてきたセザンヌの視線からは、他に類を見ないほどの強い意思を感じる。
ここでは作品そのものよりも、柴田敏雄と鈴木理策がいかにしてセザンヌと向き合ったかについて言及したい。
柴田敏雄はモチーフを定める際に、「何処にでもあるけれど何処にもないイメージ」を意識するという。普段は見過ごしてしまうようなものを対象とし、その存在によってタブローと言える力を持つ作品を制作したいと。
柴田の静物への向き合い方は、セザンヌと共通する部分がある。
セザンヌは静物画での実験を経て風景を描いたが、柴田もまた「ナイト・フォト」のシリーズで風景を静物画のように撮ることを目指していた。その中で、両者は静物の持つ自由度の可能性に大きな期待を抱いたのだ。
あまり人が扱わない目立たないモチーフ。山の中にあるコンクリートと鉄、電話ボックス、真っ直ぐに続いていく道路。それらを静物のように撮影する。本来であれば無機物であるものたちが、瞬く間に有機的なものとして息をし始める。
実際に目に写るものとは違うイマジネーションを、セザンヌ・柴田の作品から感じ取ってもらいたい。
セクションⅡでも書いた通り、鈴木理策は2年間にわたり「サント・ヴィクトワール山」のシリーズを撮影したが、同じくセザンヌも生涯この山を描き続けた画家だった。
別の時代に生きた人間が同じ空間に接近する。そう、彼らは世界に接近することを目指していた。絵画という手法で、はたまた写真という手法で。
生前、セザンヌはこのような言葉を残している。
世界は一瞬のうちに過ぎ去ってゆく。それを現実のままに描くのです! そのためには一切を忘れること。世界そのものになること。つまり知覚の感光板であることです。私たちの前に現れたもの一切を忘れて、私たちが見ているもののイメージを描くことです。
セザンヌは人がものを見て、それが二次元に落とし込まれる時にどのように表現されるかという試みに強い関心を抱いていた。それは紛れもない、視覚と時間への挑戦である。ただ目にうつったものだけではない、そこで経験したからこそ得られる奥行きを、セザンヌは表現したかったのではないだろうか。
セザンヌのアトリエ。部屋の中に入り、カメラを据えてファインダーを覗く。そこで鈴木が見たものは、画家の視線の存在だった。
部屋の細部にセザンヌの視線が宿っている。彼の視線が矢印のように室内で交差している。アトリエに置かれた様々なモチーフは単なる物質ではなく、セザンヌの協力者、つまり絵画と戦ったひとりの画家の経験を記憶しているように思ってならないと、鈴木は語った。
自らを感光板として如何にして画面上に実現させたのか、両作家の作品には芸術を創造する道筋が示されている。
セクションⅣ「柴田敏雄—ディメンション、フォルムとイマジネーション」、セクションⅴ「鈴木理策—絵画を生きたものにすること/交わらない視線」では、前のセクションを引き継ぎセザンヌを意識した展示となっている。
両セクションに共通する特徴として、絵画ではない「立体的な物体」を選んでいることが挙げられるだろう。
柴田はヴァシリー・カンディンスキーの《3本の菩提樹》を、そして鈴木はアルベルト・ジャコメッティ《ディエゴの胸像》を用意した。
立体的なフォルムを平面に落とし込む。「そこ」にいないと作ることができない、ほとんど偶然とも言えるような瞬間の出来事である。能動でもあり、受動でもある力。気が遠くなるほどの確率で、対象と出会ったその時に見ているもの。
それは見る先において撮ることの中で生じたひとつの選択の結果であり、真に伝えたいことは撮影時の「今見ていること」自体である。
そこに存在する。認識し、シャッターを押し、印刷される。
その道のりを歩むにはどうしても時差が生じてしまうものだが、ひとたび作品を前にすれば我々はどこの地点へも遡ることができる。
今現在そこに在る物と過去に見た物を再確認していく過程にこそ、立体と平面の融合におけるドラマが生まれるのだと思う。
エスカレーターを降りる。
広いフロアの中、まるで別空間へと誘われるような黒い道が右壁に現れる。
最後のセクション、「雪舟」である。
真っ暗な部屋へ入り込んだ瞬間目に飛び込んだものは、対照的な黒と白、そしてため息が出るほど美しい水墨画だった。
中世の画家・雪舟の水墨画《四季山水図》を中心に、両作家の作品が並置されている。
これを圧巻と言わずしてなんと言おう。
柴田は1990年代に制作したダムの写真作品3点を、鈴木は「White」シリーズ2点を展示している。
本セクションに向けて柴田は雪舟の空間構成を、鈴木は東洋絵画における描かれている部分と描かれていない部分(紙)の差異に着目したという。
哲学者のジル・ドゥルーズは「思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである」と言った。
その言葉に倣うならば、この展示こそが思考に暴力をふるう“何か”であり、我々は無理にでも目に飛び込んだものへ想像を巡らせる。
芸術に立ち向かう作家たちはそれぞれ「絵画」と「写真」という手法を選んだ。常に沈黙する作品を見て、想像する。世界への接近、自然と文明の境界、堰き止められたかのようなダムの水、目に痛いほどまばゆい雪の白。
セザンヌの塗り残しを前にした数多くの人々と同様、これらの作品は我々に「見ること」そのものを意識させる。
「見る」という持続的な体験。カンヴァスにうつる景色を吸収し、それぞれの地点が繋がっていく。それはもしかしたら芸術でしか成し得ないものなのかもしれない。
静かに佇む作品を前に足を止め、じっと見据えてほしい。
今、自分は何を見ているのか。それを描いた画家は、シャッターを押した写真家は、何を見ていたのか。
人間が見るものとは異なるもう一つの風景を通して、何重にも積み重なる時間を経験してほしい。
【開催概要】
ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策
写真と絵画—セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策
主催:公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館
会場:アーティゾン美術館6階展示室、4階展示室内ガラスケース
会期:2022年4月29日〜2022年7月10日
開館時間:10:00 — 18:00 ※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日
入館料:日時指定予約制
ウェブチケット1,200円、当日チケット1,500円、学生無料
作品点数:約280点
アーティゾン美術館 〒104-0031 東京都中央区京橋1-7-2
Tel: 050-5541-8600