寛永時代の茶の湯
開催期間: ~
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茶の湯が確立した桃山時代の利休の茶の湯から変容してゆく「寛永の茶の湯」
「寛永行幸四百年祭」連携事業として京都市内外の博物館、美術館で開催される展覧会のPart 4です。
Part3の「寛永行幸四百年記念 特別展 寛永行幸と花の都の文化びと」@泉屋博古館の半券で100円引きです。この鑑賞レポートを書くにあたり、野村美のyoutubeを視聴しました。皆さんも是非視聴してください。谷館長が「寛永文化」の歴史的背景を分かりやすく解説されています。
桃山文化と元禄文化を繋ぐ文化としての江戸初期の寛永文化における「茶の湯」は、利休時代とは変容し、元禄時代へとさらに変容していくと捉えられています。「寛永文化」は、後水尾天皇を頂点とした、公家、武家、富裕な町人とさまざまな階層のサロン文化で、綺羅星の如く文化を担った人々が現れました。しかし、江戸時代になると都が江戸に移り、江戸の町が発達して、文化の中心も江戸に移り「複眼文化」と谷館長は語っておいでです。
展覧会は、「寛永の茶の湯」を担った武家の茶の小堀遠州、公家に人気のあった金森宗和、宗和プロデュースによる端正な野々村仁清、マルチな本阿弥光悦とその孫の本阿弥空中、ノンカウこと樂家三代樂導入の茶道具が当時の茶会記に基づいて展示されています。後水尾天皇のサロンでは、立花とともに茶の湯が盛んとなりました。いつもは豪華な能装束が展示されている正面には、「宮廷における茶の湯」が展示されています。前期(10月18日まで)の地下展示は薄茶の遠州、宗旦、宗和の茶道具が展示されています。
利休の切腹後の「茶の湯」と千家の子孫たちの辿ったことから利休の孫、宗旦は遠州と宗和を批判します。厳しい「わびすき」の利休の理念から離れて「茶の湯」を享受しようとする茶の湯への批判もあったようです。しかしながら、織部を経て「茶の湯は武士の式礼」となり遠州はこの時代の茶の湯の第一人者でした。「姫宗和」と呼ばれ公家に人気のあった宗和ですが、自身の中では大名家の跡継ぎとしての矜持があったと解説されていました。
「寛永の茶の湯」を担った茶人たちの人間模様も見えてくる茶道具を楽しみました。
前後期で全て展示替えです。
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- BY morinousagisan