植松奎二 コレクションのある風景 Creation–Connection–Collection–Conception
開催期間: ~
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植松奎二の頭の中(兵庫県立美術館コレクション展付き)
JAF会員証で観覧料が500円から400円になった。
植松奎二の作品とコレクションからなる展覧会で、植松氏の頭の中が部屋になっているようだった。こんな頭の中だったら覗いてみてもいいなと思う。居心地がいい。
頭の中と言ったけど、超言語的な作品ばかりだった。展示してあるオブジェは何かに似ているからいいというわけではなく、何とも言いようのない形をしている。たぶん芸術史的に何か価値があるんだろうけどそれを知らなくても見てて楽しいし、どうして楽しいのかうまく説明できない。京都芸術センター「ふるえのゆくえ」で見たソー・ソウエン「声を絶やすな」を鑑賞したときと同じ感じになった。知的ではなく感覚的に鑑賞する感じ。
アートはもちろん言葉だけで表現できないものを表現しているのだから作品を言葉ですべて説明できるわけではない。むしろ言葉に還元すると失われるものが生じる。でも言葉にすると後で思い出せるし人にも伝えられて便利。それに鑑賞者個々人の感覚だけに終始していると芸術が自閉していくような気がする。
という感じで最近ことばとの関係がぎくしゃくしている。とりあえず言語化できた作品を挙げると、
◯植松奎二「置――浮遊の場/Situation-Floating Space」、兵庫県立美術館コレクション展で見たのとタイトルが同じだけど制作年と形と材料が違う。兵庫県立美術館の時は樹のように反射した光ばかり見ていたけど、今回はオブジェそのものの不安定な形とスギノコみたいな影に注目できた。このオブジェの近くに展示してあると木下佳通代の絵にあるあの独特の長方形が枝のように見えてくる。
◯植松奎二「見ること――風景/Seeing-Landscape」、たぶん同じ風景写真が20展示されているんだけど、一つひとつタイトルが違う。風景の中にあるモノたちの名前がそれぞれタイトルにされている。それによって風景が寸断されている。私たちはふだん風景をみるとき一つひとつのものをバラバラに認識しているのでなく全体を風景として捉えている。ではどんなふうに捉えているのか?と聞かれると困る。 風景(全体)と一つひとつのモノ(部分)の関係の問い直し。これは知的に鑑賞できる作品だった。
◯小杉武久「Tender Music」、口に紐が巻かれた瓶。瓶に紙が貼ってあって、そこに使い方が描いてある。それによるとこれは転がして使う楽器だとわかる。美術館に展示されているからには実際に手に取って演奏することはできない。が、使っているところや瓶の転がる動き、立てる音が想像できる楽しい作品だった。
なんとグッズもあった。パンフレット兼ポスターとシールのセットを買った。観覧料400円だしまた行きたいと思う。
今回、兵庫県立美術館コレクション展もそういう感じだった。楽しかったしまた行きたいけどその理由をうまく説明できない。
気になった作品を挙げると、
◯クリスト&ジャンヌ=クロード「スポレート1968(「梱包された噴水と梱包された塔」プロジェクトより)[1]」、竹村京さんの修復はここと繋がっているのかなと思う。
◯堀浩哉「エリゼの肖像へ――No.7」、薄い花びらと細い茎のように見えてスイートピーみたいできれいだった。
◯元永定正「くろいぼやぼやのごほん」、遠くからでも元永ってわかる。ケミカルに発光しているように見えて核戦争で世界が荒廃した後の終末世界的な感じがする。似たようにケミカルに発光している「ヘランヘラン」が展示してあったとき、ベビーカーに乗った子どもが絵を見て「いや!」と言ってて、男性が「ほら、ぴかぴかだよ」とベビーカーをおしながら絵に近寄って行ったら、「ぴかぴかいや!」と子どもが畳みかけていたのを思い出した(ベビーカーと男性はそのままUターンして行った)。
ちなみに川西英「露台」はポストカード化されていなかった。東山魁夷「コペンハーゲンの街」と並べて飾る計画は頓挫した。
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