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下村観山展

和歌山県立近代美術館|和歌山県

下村観山展

開催期間:

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感謝!下村観山展@和歌山県立近代美術館へ巡回

関西にあっても横山大観の展覧会はしばしば開催され、大観と行動を共にしていた菱田春草の作品を観る機会も少なくはない。しかし、岡倉天心の薫陶を受け、東京美術学校に学び、天心に従って五浦にも移った大観、春草、観山(大観と観山は一期生、春草は1年後輩)ですが、関西で下村観山の展覧会はおろか作品を観ることさえあまりありません。私事の記憶の中なら福田美術館で観山がロンドン留学中の水墨画を見たことと、コロナ禍前に和歌山県立近代美術館へ出かけて観山の実家は和歌山であったことから、当館に観山作品が所蔵されていることを知りました。(五浦には木村武山も一緒で、実は武山の展覧会も観たい!)
横浜美術館で開催された原三渓展で観山の作品を観て以来、下村観山の展覧会が観たい観たいと思っておりました。中でも《弱法師》はどうしても観たい!と願っておりました。
和歌山県立近代美術館は、コロナ禍前は18きっぷを利用して何度か出かけており、和歌山城のすぐそばに建つ黒川紀章建築の大好きな美術館の一つです。パンダの特急電車でなければ快速で2時間はかかるのですが、台風接近のため初日に出かけ、午後からの東京藝術大学教授 古田亮さんの講演会も聴講し、一日和歌山県美で過ごしました。
展覧会は3部構成です。
第1部 日本美術院展覧会出品作を中心に画業を最初期から辿る
第2部 制作を紐解く―「何をどう描いたか」「何を描いたか」
第3部 注文制作
一部の作品を除いて撮影可、繊細で緻密な描き込みを見るため単眼鏡の貸出もあります。単眼鏡は持参しましたが、スマホで撮影可なので私のような者は単眼鏡よりもスマホで拡大して両目で見る方が見易かったです。ぜーんぶバシャバシャと携帯で撮影しておられる方に若い方からシャッター音消してください!とクレームも耳にしましたが、その音の消し方が分からないですよね。とお声掛けしたいほどで。
東京国立近代美術館の展示がほぼそのまま巡回する充実の展示でした。の上に、大都会の展覧会ほどには混んでいませんし、展示空間がよく、時間を存分にかけて快適に見ることが出来ました。
大観は美術学校に入学するまで絵の勉強をしておらず、初期の作品はかなり拙い(と山田五郎さんも仰っておりました)観山は、「紀州徳川家に代々仕える能楽師の家に生まれ、8歳で上京して狩野芳崖や橋本雅邦に師事して狩野派の描法を身につけていました。そこが大観や春草(春草は、上京前に絵は習っていたようですが)との大きな違いでもあるでしょう。
本展では、観山の最初期の10歳の手習いの作品、東京美術学校時代の写生から所謂絶筆までを時系列で辿ることが出来、その時代背景や当時の日本の美術界をも感じることが出来ました。大観や春草に比して歴史に題材をとった作品が多く、琳派からも影響を受けた煌びやかな作品もあります。観山作品には、品格や落ち着き、といいますか、地に足がついているといいますか、そんな印象をもちました。天心からも信頼篤かった観山自身の人柄であったように思います。

観山は、日本画家として初めて官費でロンドンへ留学します。何故観山だったのだろうと思いましたが、天心に従って東京美術学校を辞した観山ですが、後に日本美術院正員のまま東京美術学校へ教授として復帰していました。当時ヨーロッパは留学している洋画家は、岡田三郎助、浅井忠などが居ました。日本画家となると第一期生でもあり教授でもあった観山が行くのは当然だったようです。ロンドンへ留学といえば、漱石もそうでした。古田さんの講演によれば、観山は漱石が住んだ下宿先の1つにも住んでいたそうです。後々の留学のように美術学校などに入り本格的に美術の勉強をしたというのでもなさそうです。日本画と親和性を持つと考えられていた水彩画を学ぼうと留学先をロンドンにしたとパネル解説されていました。漱石のようにラファエル前派の絵画も多く目にしていたでしょう。油彩の原画を水彩絵具で写しており、有名なラファエロの《椅子の聖母》の模写は絹本に水彩で描いているようです。聖母と幼子キリストの目が透き通っていました。フランス、ドイツ、イタリアも回って帰国しました。留学先がイタリアやフランス、ドイツならまた違った刺激を受けていたかもしれないとも思いました。

天心に従って五浦海岸へ大観、春草らと共に移住しますが、日本美術院の経営状態は非常に厳しいものだったようです。共に歩んできた春草が、画家でありながら目を患い若くし亡くなってしまいます。春草の意思も観山は受け継いて描いていきました。岡倉天心も1913年に逝ってしまい、日本美術院の再興は大観や観山に託されました。天心の一周忌に「日本美術院」の再興をはかり、第一回再興美術院展が開催され、観山は「白狐」[展示:6月23日‒7月5日]を出展。第二回に重要文化財「弱法師図」、第三回には「春雨」[展示:7月7日‒7月20日]と大作を発表しました。

念願の《弱法師》との対面。金屏風の前に椅子がありじっくりと作品を堪能することが出来ました。観山の出自である「下村家」は紀州徳川家に仕えた能楽師の家系です。その能に題材をとった《弱法師》[展示:5月30日‒6月28日]盲目の若者・俊徳丸が手を合わせる姿に深く感動しました。

かつての財界人たちは若い芸術家を支援しました。観山でいうなれば、渋沢栄一などによる「観山会」が創設され、また原三渓に招かれて横浜本牧の和田山に移り住み、以降、三渓は生涯にわたり観山を支援し続けました。実業家たちから注文を受け、その事情や意図を吟味した作品を制作しています。

観山の人柄もありましたが、大観の人間性からどうしても大観が人前でしゃべることが多かったようですし、大観は長生きでしたから。観山は昭和5年に57歳で亡くなります。古田さんは、大観が本領発揮となったのは観山の亡き後だとお話しなさっていました。全く私の個人的な印象ですが、大観作品をコレクションしている人は、魯山人もお好きのように思います・コレクションには、コレクターの個性が出る。

絶筆といわれる《竹の子》も、とても絶筆とは信じられない、細やかに柔らかに穏やかに描かれています。狩野派、大和絵、琳派、中国絵画と古画を研究し、洋画描法も取り入れながら、線と色彩の美しい日本画を描いた観山でした。

充実の展覧会で遥々出かけた甲斐がありました。春草へのオマージュの黒猫が描かれている《唐茄子畑》と小村雪岱に登場する女性のような傘で顔を隠した《春雨》が観たく、7月にできれば再訪したい。
展覧会は、どうしてもその地ゆかりの画家のものが多くなり、日本画でいうなれば関西では京都画壇の画家の展覧会が多くなります。観山はたまたま出身が和歌山でしたが、その人生のほとんどを関東で過ごしています。和歌山でも45年ぶりの展覧会だそうです。話題になっている今村紫紅などの展覧会も関西でしてほしいし、「小原古邨」の展覧会が観たい観たい!

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