バーゼルの街そのものが、
世界最高峰のアートフェアの原点
アートフェアから始まる、都市とアートの旅へ|ART BASEL(BASEL)Vol.3

構成・文:藤野淑恵
2026年6月、スイスのバーゼルで開催されたアートバーゼル バーゼル2026。前回【Vol.01】【Vol.02】に続き、最終回となる第3回は、アートバーゼルの会場を一歩出た先に広がる、バーゼル市とその周辺のアート機関を紹介する。
アートバーゼル(バーゼル)2026 Vol.3 INDEX
バイエラー財団美術館|Fondation Beyeler
ヴィトラ・キャンパス|Vitra Campus
バーゼル市立美術館|Kunstmuseum Basel
シャウラガー・ローレンツ財団|Schaulager, Laurenz Foundation
アートバーゼルの外にもある、「アートの都」バーゼル
バーゼル市内や近郊にはバーゼル市立美術館やバイエラー財団美術館(以下、バイエラー財団)、シャウラガー・ローレンツ財団などがあり、いずれもアートバーゼルの会場からトラムで訪問することができる。また、アートバーゼルの会期中は、個性的なサテライトフェアも充実しており、新進気鋭のギャラリーや若手アーティストが集まる「リステ(Liste Art Fair Basel)」、 2005年にバーゼルで設立され、現在はニューヨークでも開かれているVOLTA(VOLTA Art Fairs)、近年台頭してきたバーゼル・ソーシャル・クラブなどが開催されている。アートバーゼルのために世界中から集まった人々が、日常の交通網を使って気軽にサテライトフェアや美術館を巡る——この距離感もまた、バーゼルという街の魅力だ。バーゼルに集まるギャラリストやコレクター、美術館関係者たちも、フェア会場を出てバーゼル周辺の展覧会を観ることを大きな楽しみにしている。バーゼルバーゼルをこれほどの求心力を持つ場へと育てたのは、何百年もの時間をかけて文化と芸術を蓄積してきたこの街の存在にほかならない。
バイエラー財団美術館|Fondation Beyeler

ガラス越しに庭園と展示室が連続する光に満ちた同館は、世界の美術館愛好家の憧れだ。Photo: Mark Niedermann
世界の美術館愛好家が憧れる、バイエラー財団の世界
バイエラー財団美術館は、アートバーゼル創設者の一人、ギャラリストのエルンスト・バイエラーと妻ヒルディによって築かれた。建築家レンゾ・ピアノの代表作のひとつとして知られるこの美術館は、天井から柔らかな自然光が降り注ぎ、ガラス越しには庭園の緑が広がる。建築そのものが芸術と自然の境界を問うような空間だ。
バーゼルバーゼルの開幕を5ヶ月後に控えた2026年1月まで、この美術館では草間彌生のスイス初となる大規模回顧展「Yayoi Kusama」(2025年10月12日〜2026年1月26日)が開催されていた。70年以上にわたる作家の創作の軌跡を300点以上の作品で辿るこの展覧会は27万人以上を動員し、同財団が現代美術作家の展覧会で記録した最多動員となった。草間は、数ヶ月後のバーゼルバーゼル Unlimited にも、デイヴィッド・ツヴィルナー(David Zwirner)から巨大な彫刻作品を出展した。バイエラーで27万人を惹きつけた作家が、アートバーゼルというコマーシャルフェアの会場でコレクターと向き合う——美術館とフェアが一つの大きなアート体験として連続するこの感覚こそが、バーゼルという街ならではのものだ。

アートバーゼル会期中、企画展はフランスのコンセプチュアル・アーティスト、ピエール・ユイグ(Pierre Huyghe、1962年生まれ)の大規模個展(5月24日〜9月13日)へと引き継がれていた。スイスの美術館での初の個展であり、新作と近年の主要作品が、同館のために新たに構成された。2024年のヴェネチア・ビエンナーレの会期中にフランソワ・ピノーが設立した現代美術財団「ピノー・コレクション」(ヴェネチア)で開催されたユイグ展の衝撃を思い出さずにはいられなかったが、ユイグの作品世界である生命と人工物、リアルとフィクションの境界が絶えず揺れ動く環境を、光と自然光に満ちたバイエラー財団で体験する稀有な機会となった。人間と生態系の境界を問うユイグの実践と、自然と建築が共鳴するバイエラーの空間が、響き合っているようにも感じられた。

コレクション展はバイエラー財団の真価を問うものだ。エルンストとヒルディのバイエラー夫妻がギャラリー活動と並行して50年以上かけて築き上げたコレクションは、クラシック・モダンから現代美術まで400点以上の作品を擁する。「自分が共に生きたいと思うものしか買わない」とエルンスト・バイエラーが語ったように、市場の動向や学術的な枠組みではなく、深い審美眼と個人的な情熱によって形成されたコレクションだ。モネの睡蓮、セザンヌ、ピカソ、ロスコ、ジャコメッティ、フランシス・ベーコンら20世紀美術の核心が揃うコレクションは、アフリカやオセアニアの民族美術も包含し、一つの流れとして現代美術史を体感できる場となっている。コレクション展のためだけに訪れる価値があるというのは、バーゼル市立美術館とバイエラー財団の共通点といえる。
- 美術館情報|スイス・リーエン(バーゼル近郊)
バイエラー財団美術館(Fondation Beyeler)
住所:Baselstrasse 101, CH-4125 Riehen/Basel, Switzerland
https://www.fondationbeyeler.ch
開催展覧会
「ピエール・ユイグ(Pierre Huyghe)」
開催美術館:バイエラー財団美術館
開催期間:2026年5月24日(日)〜9月13日(日)
https://www.fondationbeyeler.ch/ausstellungen/pierre-huyghe
ヴィトラ・キャンパス|Vitra Campus

国境の先の建築とデザインの聖地、ヴィトラ・キャンパス
バイエラー財団のコレクションをゆっくり堪能した後、美術館の外へ出ると、国境を越える遊歩道「リベルガーの小道(Rehberger Weg)」の入口がある。この道はバイエラー財団とヴィトラ・キャンパスを結ぶ全長約5キロの風光明媚な遊歩道で、ブドウ畑や自然の景観の中をスイスからドイツへと歩きながら両国の文化施設を繋ぐことができる。2015年から10年間にわたってこのルートを彩ったトビアス・リベルガーによる24点のアート作品「24 Stops」は2025年10月に終了したが、国境をまたぐ自然の中を歩く体験そのものの豊かさは変わらない。所要1時間半から2時間のこのルートは、6月のアートバーゼル会期中は気温が高いこともあり、気候の良い季節に訪れる人への特別なお勧めだ。

スイスの家具メーカー、ヴィトラの本拠地であるヴィトラ・キャンパスは、1981年の工場火災を機に世界的なスター建築家たちに次々と建物を依頼したことで、建築ファンの間では「生きた建築ミュージアム」として知られる場所だ。ドイツのヴァイル・アム・ラインに位置するこのキャンパスには、フランク・ゲーリー、ザハ・ハディッド、安藤忠雄、ヘルツォーク&ド・ムーロン、SANAAなど世界的建築家の建物が一堂に集まる。アートバーゼルの会期中、ゲーリー設計のヴィトラ・デザイン・ミュージアムではオランダ人デザイナー、ヘラ・ヨンゲリウスの初の大規模回顧展「Whispering Things」(3月14日〜9月6日)が開催されていた。

一方、ヘルツォーク&ド・ムーロンが設計したシャウデポ(2016年開館)は、ヴィトラ・デザイン・ミュージアムの膨大なコレクションを常設展示するために建てられた施設だ。1800年から現在に至る400点以上の家具デザインの名品が倉庫風のラックに並び、ル・コルビュジェ、アルヴァ・アアルト、チャールズ&レイ・イームズらのアーカイブや遺品も収蔵されている。世界で最も重要な家具デザインのコレクションの一つとして知られるシャウデポは、建築と同様にヴィトラキャンパスの核心をなす場所だ。
- 施設情報|ドイツ・ヴァイル・アム・ライン
ヴィトラ・キャンパス(Vitra Campus)
住所:Charles-Eames-Straße 2, 79576 Weil am Rhein, Germany
https://www.design-museum.de
バーゼル市立美術館 | Kunstmuseum Basel

市民が守り続けた圧倒的なコレクション
バーゼル市立美術館は3棟で構成されている。旧巨匠から19世紀の絵画・素描を中心に収蔵する主棟(ハウプトバウ、1936年開館)と、クラシック・モダンを中心とした新棟(ノイバウ、2016年開館、設計:クリスト&ガンテンバイン)は地下でつながり、一枚のチケットで回遊できる。1980年にヨーロッパ初の公立現代美術専門施設として開館したゲーゲンヴァルト棟は、ライン川沿いに別の場所に立つ。

今年のアートバーゼル期間中、新棟で開催されていたのはヘレン・フランケンサーラー展(4月18日〜8月23日)だ。アメリカの抽象表現主義からカラー・フィールド・ペインティングへと続く流れを切り拓いた画家(Helen Frankenthaler、1928〜2011年)の50点を超える作品で60年の軌跡を振り返るこの展覧会は、ヨーロッパ最大のフランケンサーラー展であり、スイス初の個展でもある。会場でひときわ目を引いたのが《Moveable Blue》(1973年)。流動する青の領野が画面に満ちるこの大作は、彼女がソーク・ステイン技法を深化させた頃の成熟した表現を示す一点だ。

Photo: Samuel Bramley
印象的だったのは、展示の一部でフランケンサーラーの絵画を、彼女が影響を受けた先達の作品と並置する構成が取られていたことだ。レンブラントやモネ、モンドリアン、クールベなどとともに、広重の浮世絵版画も展示されていた。フランケンサーラーが1973年以降に取り組んだ版画制作は広重の影響から始まったという。今回の展覧会では、実際に彼女が所有していた広重作品が、作家が広重へのオマージュとして制作した《For Hiroshige》(1981年)とともに展示されていた。日本ではなかなか鑑賞機会のない浮世絵とカラー・フィールド・ペインティングという二つの世界の対話のような展示には多くの来場者が足を留めていた。ここでしか実現しえない出会いを前に、バーゼルを訪れた喜びを実感する時間となった。

15世紀のドイツ・スイス絵画から現代美術まで、700年近い美術の歴史をたどることができる常設コレクションもまた、バーゼル市立美術館の大きな魅力だ。なかでも見逃せないのがハンス・ホルバイン(子)の《墓の中の死せるキリスト》(1521〜22年)。横たわる遺体を異様な写実性で描いたこの細長い板絵は、ドストエフスキーが「信仰を揺るがすほどだ」と記したことで知られる。

バーゼルの市民が1967年の市民投票で守ったピカソの《二人の兄弟》と《座るアルルカン》もここに収蔵されており、あの決議が実際にどのような作品を未来へ残したかを確認できる。バーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、フランツ・クライン、クリフォード・スティルら、1961年にヨーロッパの公立美術館として初めて収蔵されたアメリカ抽象表現主義の名品が揃う一室も圧倒的だ。アートバーゼルの一週間では到底見尽くせない——だからこそ、バーゼルへは何度でも戻ってくることになる。
- 美術館情報|スイス・バーゼル
バーゼル市立美術館(Kunstmuseum Basel)
住所:St. Alban-Graben 16, CH-4010 Basel, Switzerland
https://kunstmuseumbasel.ch
開催展覧会
「ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler)」
開催美術館:バーゼル市立美術館(新棟・ノイバウ)
開催期間:2026年4月18日(土)〜8月23日(日)
https://kunstmuseumbasel.ch/de/ausstellungen/2026/helen-frankenthaler
シャウラガー・ローレンツ財団|Schaulager, Laurenz Foundation

「見る倉庫」という革新
バーゼルで欠かせない存在にシャウラガー・ローレンツ財団(以下、シャウラガー)がある。1933年、製薬会社ロシュの創業家一族のエマヌエル・ホフマンが急逝した後、妻のマヤ・ホフマン=シュテーリンが夫の名を冠したエマヌエル・ホフマン財団を設立し、現代美術の収集を始めた。財団の孫娘にあたるマヤ・エーリがローレンツ財団(1999年設立)を立ち上げ、コレクションの専用施設をヘルツォーク&ド・ムーロンに依頼。2003年に完成したこの施設がシャウラガーだ。「シャウ(見る)」と「ラガー(倉庫)」を合わせた造語の通り、保管・研究・展示を一体化させた世界に類を見ない機関で、バーゼル郊外ミュンヘンシュタインに立つ。エマヌエル・ホフマン財団のコレクションは1941年よりバーゼル市立美術館と永久貸与協定を結んでおり、ダリ、ドローネー、ボイスらの作品が同館の展示にも組み込まれている。シャウラガー自体は基本的に展覧会開催時のみの公開だが、毎月最終水曜日に一般向けガイドツアーが行われ、研究者は申請によりコレクションへのアクセスが可能だ。

毎月最終水曜日には一般向けガイドツアーも行われる。
Schaulager® Münchenstein/Basel, Sammlung der Emanuel Hoffmann-Stiftung Photo: Jonas Kuhn, Zürich
今年のバーゼルバーゼル会期中、シャウラガーでの展覧会は開催されていなかったが、代わりに用意されていたのが、バーゼル劇場(シャウシュピールハウス)で上演されたパフォーミングアーツ・プログラムだった。ドイツ語圏を代表する演出家クリストフ・マルターラーが演出した《Das Weinen (Das Wähnen)》は、シャウラガーが所蔵するディーター・ロート(1930〜1998年)のテキストに基づく作品だ。「Das Weinen(嘆き・涙)」「Das Wähnen(幻想・思い込み)」——日常語の微妙なずれを遊ぶロート独自の言語感覚が、薬局を舞台にした詩的でコミカルな物語として蘇る。2003年のシャウラガー開館を「Roth-Zeit(ロートの時代)」と題した大規模回顧展で飾るほど、ロートはこの機関と深いゆかりを持つ作家だ。バーゼル会期中の5日間、フェアを訪れた世界の関係者たちも劇場へ足を運んだ。ドイツ語上演で英語字幕を追いながらの鑑賞は決してやさしくはなかったが、製薬会社の本拠地であるバーゼルらしく薬局が舞台というこの設定と、ロートのテキストが持つ奇妙なユーモアは十分に伝わってきた。美術館でも劇場でも、ジャンルを越えてアートを紹介する。その柔軟さもまた、シャウラガーらしい試みといえる。

- 美術館情報|スイス・ミュンヘンシュタイン(バーゼル近郊)
シャウラガー・ローレンツ財団(Schaulager, Laurenz Foundation)
住所:Ruchfeldstrasse 19, CH-4142 Münchenstein/Basel, Switzerland
https://schaulager.org

「アートバーゼル」という名前は今や、香港、マイアミビーチ、パリ、カタールと、世界各地のアートフェアに冠されるブランドになった。「バーゼル」はもはや地名を超え、現代アートの世界における一つの基準を意味する言葉として機能している。しかし逆説的に、その名が世界を巡るほど、バーゼルという街の固有性は際立つ。名前は輸出できても、名前を支えてきたものは輸出できないからだ。世界のどこかで「アートバーゼル」という言葉が語られるとき、その言葉が指し示す原点は、ライン川が3カ国の国境を流れるこの小さな街にある。