今シーズンの最終章を飾る「エレクトラ」が開幕。
新国立劇場オペラの醍醐味
意欲的な新制作2作品の紹介と磨き抜かれたレパートリー(2025/2026シーズン)から振り返る3作品
![2026年5月に上演されたレパートリー作品、新国立劇場「愛の妙薬」より。撮影:飯田耕治 舞台に掛けられた紗幕には、アルテ・ポーヴェラの美術家アリギエロ・ボエッティの文字グリッド作品「Arazzi」シリーズが引用されている。同プロダクションは「新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室 2026」(2026年7月10日[金]~7月16日[木])でも上演される。](https://i.artagenda.jp/feature/1/images/ff489ca242cedd53a8251f90c79b151c_middle.jpg)
舞台に掛けられた紗幕には、アルテ・ポーヴェラの美術家アリギエロ・ボエッティの文字グリッド作品「Arazzi」シリーズが引用されている。同プロダクションは「新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室 2026」(2026年7月10日[金]~7月16日[木])でも上演される。
文・構成:藤野淑恵
実力派の歌手たちが緋色の一夜を描く
R.シュトラウスの復讐の悲劇「エレクトラ」
新国立劇場オペラ(東京・初台)の今シーズン(2025年秋〜2026年夏)のラインナップも、残すところ1演目となった。シーズンを締めくくるのは、リヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」。新国立劇場オペラ芸術監督 大野和士の指揮により、6月29日に開幕する。作曲家リヒャルト・シュトラウスとその後、シュトラウスの黄金期オペラを作っていくこととなる台本作家フーゴ・フォン・ホフマンスタールが初めて組んだ作品だ。音楽と言葉が分かちがたく結びついた、ギリシャ悲劇をもとにする本作は、父王アガメムノンを手にかけた母クリテムネストラとその愛人エギストに、王女エレクトラが復讐を遂げるまでを描く。
新国立劇場オペラ初登場となる演出家・ヨハネス・エラートは、数々の名門歌劇場で演出を任され、第一線で活躍を続ける人物。ウィーン・フォルクスオーパーとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のアカデミーでオーケストラ奏者として活躍したのち、演出家へ転じた経歴を持つ。タイトルロールの「エレクトラ」を演じるのは、近年この役を重ねて歌い脚光を浴びるエストニア出身の実力派オペラ歌手(ソプラノ)のアイレ・アッソーニ。エレクトラと対峙する母クリテムネストラには、日本を代表するメゾソプラノ、藤村実穂子が立つ。シーズンのラインナップ発表会で、大野芸術監督はこのシーズンの二つの新制作を、二つの色になぞらえた。陰惨な「ヴォツェック」が黒なら、復讐に灼かれる「エレクトラ」は緋色。その色のように激しく張り詰めた舞台になるという。

- 公演情報
リヒャルト・シュトラウス「エレクトラ」《新制作》
Elektra / Richard Strauss
全1幕〈ドイツ語上演/日本語及び英語字幕付〉
公演期間:
2026年6月29日(月)19:00
2026年7月2日(木)14:00
2026年7月5日(日)14:00 ※バックステージツアー
2026年7月8日(水)14:00 ※託児サービス利用可
2026年7月12日(日)14:00
会場:新国立劇場 オペラパレス
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/elektra/
復讐の連鎖を舞台に立ち上げる。
演出家ヨハネス・エラートが語る、緋色の悲劇
約1時間45分という凝縮された一幕。力強い主題が繰り返されるたびに音楽のエネルギーは高まり、聴き手を最後まで緊張のうちに引き込んでいく。美しくも力強い二重唱、そして声と身体を振り絞るエレクトラの幕切れを、大野芸術監督は圧巻と評する。演出家のヨハネス・エラートとは、フランクフルト歌劇場でドイツ現代作曲家のオペラ「Der Mieter(借家人)」の世界初演をともにした間柄。「一筋縄ではいかない箇所を巧みに舞台化する演出家」というエラートへの高い評価に、「エレクトラ」での協働への期待がにじむ。

そのエラートが、出演者に向けた演出コンセプトの説明で語ったことも興味深い。彼はまず、この作品の背後に横たわる時間の厚みに目を向けるよう促す。ギリシャ神話が描く通り、「エレクトラ」の物語には何世代にもわたって繰り返されてきた復讐の歴史がある。それはヨーロッパ文化における「原罪」にも似た、一種の「呪い」なのだと言う。エレクトラ一人の激情ではなく、彼女が背負わされた連鎖のなかに、この悲劇を置き直す視点だ。

もう一つ、エラートが見落とせないと言うのが、このオペラの生まれた時代だ。「エレクトラ」が世に出た20世紀初頭は、精神分析に光が当てられた時代でもあった。傷や苦しみ、意識と無意識のさらに深い層へと分け入っていく行為には、ある種の快感と、同時に気味の悪さがある——その両義的な感触こそ、舞台の上に立ち上げたい世界なのだと語る。神話が背負う呪いと、心の深層。エラートの「エレクトラ」は、その二つの闇に分け入っていく。
現代オペラの2つの新制作が揃った稀有なシーズン
今シーズン、新国立劇場の新制作(同じ演目でも、演出や舞台セットをゼロから新しく作り上げた作品)は、2025年11月にシーズン2作目として上演された、20世紀オペラの最高峰として知られるアルバン・ベルク作曲「ヴォツェック」と、シーズンのフィナーレを飾る「エレクトラ」、ともに20世紀前半のドイツで初演された2作だ。いずれも芸術監督・大野和士の指揮。「ヴォツェック」は、初演からちょうど百年という節目に投じられた。貧困から逃れられない兵士が妻の不貞をきっかけに転落していく物語を、ベルクは歌と語りの中間に位置するシュプレヒゲザング(シュプレヒシュティンメ)の技法で、張り詰めた緊張のうちに一気に語り切る。表題役のトーマス・ヨハネス・マイヤーは、狂気がそのまま憑依したかのような演技と歌唱でヴォツェックの人物像を生々しく立ち上げた。コンテンポラリーアートを思わせる鋭さと風刺の効いた演出・美術も、物語を力強く支え、他の作品にはない凝縮感と緊張感を味わった。次に上演される機会があれば見逃したくない——そんな「癖になる特別な作品」として記憶に焼きついた。

無調と語るような発声が緊迫を生む「ヴォツェック」に対し、オペラ史上最大規模といえる大編成と、ドラマティックなソプラノに支配される「エレクトラ」。「エレクトラ」も「ヴォツェック」同様、テンションが高く得難い一夜のオペラ体験となるだろう。
レパートリー作品の充実に目を見張るシーズン。
演出・舞台美術が印象に残る3作品を振り返る
2025/2026は新国立劇場のレパートリーの厚みをあらためて実感したシーズンでもあった。新制作2作に加えて上演されたレパートリー作品は、「ラ・ボエーム」「オルフェオとエウリディーチェ」「こうもり」「リゴレット」「ドン・ジョヴァンニ」「椿姫」「愛の妙薬」「ウェルテル」の8演目。いずれも観客の支持を集めて上演を重ねてきたレパートリー作品だ。その中で演出・舞台美術の視点で記憶に残ったのは、「ドン・ジョヴァンニ」「椿姫」「愛の妙薬」の3作品。新制作の挑戦とはまた異なる、洗練された演出と舞台美術の蓄積。その魅力を、3作の舞台から振り返りたい。

ヴェネツィアの「ドン・ジョヴァンニ」。
客席と舞台が溶け合う、正統にして優美な演出
6度目の上演となったのは、長年にわたり、ウィーン国立歌劇場で演出助手や演出家として活動したブルガリア出身のオペラ演出家、グリシャ・アサガロフの演出、イタリアの舞台美術家ルイジ・ペーレゴの美術によるモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」(2026年3月5日[木]~3月12日[木] 上演、指揮:飯森範親、タイトルロール:ヴィート・プリアンテ)。主人公を18世紀に実在した色男カサノヴァになぞらえ、舞台をスペインからヴェネツィアへと移している。オペラパレスのマホガニー基調の内装がそのまま舞台へ延長したかのような木調のセットは、客席と舞台が地続きとなり、妖しくも美しいヴェネツィアの夜へと誘われた。終始気品を失わないオーソドックスな演出に魅了されながら、地獄に落ちるクライマックスの劇的な音楽には圧倒された。

鏡とシャンデリアが織りなす美の空間。誇り高く現代的な「椿姫」
現代フランスを代表するオペラ演出家の一人、ヴァンサン・ブサールが演出・美術を手がけたヴェルディ「椿姫」(2026年4月2日[木]〜4月12日[日]上演、指揮:レオ・フセイン、ヴィオレッタ:カロリーナ・ロペス・モレノ)は、2024年に続き6度目の上演となった。鏡、巨大なシャンデリア、グランドピアノだけで構成された研ぎ澄まされた空間を、フォルムと色彩豊かなコンテンポラリーな衣裳が彩る。第3幕の結末は、哀れな高級娼婦の死ではなく、誇り高い一人の女性、ヴィオレッタの新たな旅立ちを印象づけた。薄いヴェールに包まれた絵画的な美術のなか、ベッドに見立てたグランドピアノに横たわった姿勢でアリアを完璧に歌い切ったロペス・モレノは、力強く現代的なヴィオレッタ像を立ち上げた。

「愛の妙薬」の紗幕になった アリギエロ・ボエッティの代表作「Arazzi」
オペラと演劇の両方で活動しているイタリア出身の舞台演出家チェーザレ・リエヴィの演出、ルイジ・ペーレゴの美術によるドニゼッティ「愛の妙薬」(2026年5月16日[土]~5月27日[水]、指揮:マルコ・ギダリーニ、アディーナ:フランチェスカ・ピア・ヴィターレ、ネモリーノ:マッテオ・デソーレ)。オペラパレスの客席からまず目を奪われたのは、緞帳のように掛けられた紗幕。見覚えがあるアルファベットを正方形の格子状に並べたその意匠は、イタリアで生まれた前衛芸術運動、アルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)を代表する美術家アリギエロ・ボエッティ(1940–1994)の、文字グリッド作品「Arazzi」シリーズの引用だ。世界地図を刺繍した「Mappa」と並ぶ、彼の代表作のひとつである。原作は《149 Oggi quattordicesimo giorno del quinto mese dell'anno 1988》(日本語訳:149 今日、1988年5月14日)と題された職人の手刺繍による一点だが、舞台では財団の許諾を得て、その図柄を巨大な紗幕へと拡大・再現している。

美術を手がけたのは「ドン・ジョヴァンニ」と同じルイジ・ペーレゴ。撮影:飯田耕治
紗幕は光の当て方により、透けたり透けなかったりする。その特性が、「文字」を主役とするボエッティの図柄を、舞台を彩る雄弁な装置として昇華させていた。「文字と書物」を主題に据えたリエヴィの演出にふさわしく、「ELISIR(妙薬)」の文字は巨大なオブジェとなり、物語の発端をなす「トリスタンとイゾルデ」にちなんで高さ9メートルの「本」が舞台に立ち上がる。遊び心に満ちた文字の世界に、ボエッティの意匠が確かに響き合う。本作は「新国立劇場 高校生のためのオペラ鑑賞教室 2026」(2026年7月10日[金]~7月16日[木])でも上演される。
20世紀オペラ2作品を世に問うた果敢な新制作と、確かな演出と舞台美術に支えられた名作レパートリー。その両輪で走り抜けたオペラパレスの2025/2026シーズンも、残すは「エレクトラ」ただ一作。最後を飾る演目が、どんな景色を見せるのか。緋色のオペラの幕は、まもなく上がる。そして、今回紹介した3作のように、磨かれたレパートリーは今後も舞台にかかり、優れた上演に立ち会う機会はこれからも続く。