カンヌ国際映画祭で主演女優ふたりが共同受賞!
不可能を可能にする試み『急に具合が悪くなる』
なぜ濱口竜介監督は、海外で高く評価されているのか?
濱口竜介監督最新作『急に具合が悪くなる』6月19日より全国ロードショー

文 長野辰次
アートには、国境や言葉の壁を乗り越える力がある。そのことに改めて気づかせてくれるのが、濱口竜介監督の新作映画『急に具合が悪くなる』だ。
これまでに濱口監督は『偶然と想像』(2021年)でベルリン国際映画祭銀熊賞、『ドライブ・マイ・カー』(2021年)でアカデミー賞国際長編映画賞、『悪は存在しない』(2023年)でヴェネチア国際映画祭銀獅子賞などを受賞してきた。
今年のカンヌ国際映画祭のコンペ部門に選ばれた最新作『急に具合が悪くなる』は、ベルギー出身のヴィルジニー・エフィラとハリウッドでのキャリアを持つ岡本多緒のふたりに最優秀女優賞が贈られている。
6月19日(金)より日本での劇場公開が始まる『急に具合が悪くなる』の見どころを紹介すると共に、濱口監督の作品が海外で高く評価されている理由を探ってみよう。

パリで運命的に出会ったヒロインたち
物語の主舞台となるのは、パリ郊外にある介護施設「自由の庭」。施設長のマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)は、新しい介護メソッド「ユマニチュード」を現場に普及しようと尽力している。しかし、人手不足に予算不足という現実的な問題が、彼女の前には立ち塞がっていた。
介護はやりがいのある仕事だが、悩みは尽きない。そんな折、パリで公演中の舞台演出家の真理(岡本多緒)とマリーは出会う。真理が演出する演劇は、イタリアの精神医療界に革新をもたらしたフランコ・バザーリアを題材にしたもの。真理の斬新な演出に、マリーはすっかり魅了される。
上演後のティーチインのやりとりを通して、真理とマリーは意気投合。「自由の庭」の旧施設長室、現在はスタッフのための仮眠室に、マリーは真理を誘い、ふたりは夜通し語り明かすことに。
不可能なことを可能にするには、自分たちは何をすべきか。その後もマリーと真理は会話を重ね、現実を変える試みに取り組み始める。

立場が違うからこそ理解できること
フランス語と日本語が飛び交い、マリーは介護業界、真理は演劇界と、お互いが属する世界は大きく異なる。しかし、他者とコミュニケーションするという点では共通するものがある。高度に経済化が進んだ現代社会において、現実と理想とのギャップをどう乗り越えていくかという課題も、どちらも抱えている。
立場や経験が異なるからこそ、相手の状況や問題点がよく理解できることは実社会でも少なくない。小難しい専門用語も出てくるが、マリーと真理はようやく出会えたソウルメイトのような親密さで、屈託なくそれぞれの悩みを打ち明ける。テンポのよいふたりのやりとりには、観る者の心も解放していくような気持ちよさがある。
ユマニチュードとは、介護する相手の目を見て、優しく言葉を掛けながら、身体を支え、その人らしさを尊重しようというケア方法。「人間らしくある」ことに重点が置かれている。日本でも2011年から導入が始まっているが、この映画がきっかけで広く認知されるようになるのではないだろうか。

舞台と客席との境界をなくした自由な空間
真理が演出し、ベテラン俳優の吾朗(長塚京三)が演じる一人芝居で描かれるバザーリアは、心の病を持つ人を病室に閉じ込めるのではなく、社会で共に暮らすことを唱えた実在の人物だ。
現代のイタリアでは、バザーリアらの運動によって従来型の精神病院が廃止されたことが知られている。そんな介護や精神医療の新しい流れを、濱口監督は物語の中にうまく溶け込ませている。
また、吾朗が即興を交えて演じた芝居は、舞台と客席との境界がない自由なもの。この芝居を観たことがきっかけで、マリーは介護する側とされる側との関係性を考え直すことにもなる。
女優賞はヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が共同受賞したが、舞台俳優の吾朗を演じた長塚京三、吾朗の孫息子・智樹を演じた黒崎煌代の好演も特筆したい。

ひとつの物語を共有するということ
濱口監督にとって初の本格的な海外ロケとなった『急に具合が悪くなる』だが、村上春樹の同名短編小説を映画化した『ドライブ・マイ・カー』も非常に国際色豊かなドラマだった。劇中劇として上演されるチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』のパートでは、日本語、英語、中国語、韓国語、韓国手話が交わされた。
演出家の家福(西島秀俊)のもと、経歴も母国語も異なる多様なキャストが『ワーニャ伯父さん』を演じるために集まる。舞台を成立させるため、ひとつの物語を共有し、表面的な台詞ではなく、それぞれの役が感じている心の動きに誠実に向き合うことが求められた。
その結果、それぞれの文化的背景や個性の違いを含んだまま、多様性に溢れた新しい『ワーニャ伯父さん』が上演される。
人と人は完全には分かり合えないという現実も受け止めた上で、より豊かな社会になる可能性を濱口監督は映画の世界で描いてみせている。多様な言語や文化が共存する欧米社会で、濱口監督が高く評価されている理由のひとつだろう。

Andreas Rentz Getty Images Entertainment
答えを急がないことの大切さ
原作となったのは、哲学者の宮野真生子氏と人類学者の磯野真穂氏との20通に及ぶ往復書簡『急に具合が悪くなる』(晶文社)。福岡(時々、京都)と東京を結ぶ往復書簡だった原作から、パリの介護施設で働くマリーと京都在住の演出家・真理との交流劇に設定を大きく変えている。
だが、「生きる」とは何かという問いに、答えを急がずに対話を重ねていくという構成は、原作と映画で共通するものだ。
また、キャストとのワークショップやリハーサルを繰り返し、作品を立ち上げていくスタイルは、濱口監督作品の大きな特徴にもなっている。俳優たちの伸びやかな演技を観ていると、作品が丁寧な対話の積み重ねから生まれたことが感じられる。
お気に入りのアーティストの美術展やギャラリーに行くと、展示空間の心地よさから時間が経ったことを忘れてしまうことはないだろうか。同じように、映画『急に具合が悪くなる』も、マリーと真理、ふたりのやりとりをいつまでも見守っていたくなる。
アートには人の心を動かす力がある。そして、アートに触れた人たちは、それぞれが違った感想を抱くという面白さがある。濱口監督が撮った映画には、そんなアート本来が持つ豊かさが満ちているように思う。

- 映画『急に具合が悪くなる』
原作 宮野真生子・磯野真穂 監督 濱口竜介 脚本 濱口竜介、ルディムナ玲亜
撮影 アラン・ギシャウア 美術 ミラ・プレリ
出演 ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代
配給 ビターズ・エンド https://www.bitters.co.jp/soudain/
2026年6月19日(金)より、TOHOシネマズ日比谷ほか全国の映画館にてロードショー公開
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