マルク・シャガールが描いたバレエ「アレコ」が
MoN Takanawaで83年ぶりに甦る
Mon Takanawa: The Museum of Narratives 開館記念プログラム バレエ「アレコ」が
2026年5月29日(金) から6月7日(日)まで上演

舞台中央の大型LEDスクリーンにシャガールの描いた舞台背景画が再現される。
構成・文:藤野淑恵
2026年5月、かつては異国の地で劇場の舞台を彩り、今は日本の美術館に収蔵・展示されているマルク・シャガールの巨大な背景画《アレコ》が、本来の場所=舞台へと帰ってくる。東京・高輪に3月28日に開館したばかりの複合型ミュージアム「MoN Takanawa: The Museum of Narratives」(以下MoN Takanawa)がその舞台だ。青森県立美術館に展示されているその名作がLED技術で高精細に再現され、シャガールが想定した通り4幕ごとに背景が切り替わりながら上演される。約80年の時を経て、《アレコ》は再び舞台美術として息を吹き返す。
色彩の海に眠る、シャガールの舞台美術

青森県立美術館の地下2階、縦横21メートル、高さ19メートルという大空間「アレコホール」には、マルク・シャガールの巨大な舞台背景画4点が展示されている。恋人たちが浮かぶシャガール・ブルーの夜空(第1幕)、黄と茜が歌い出すような明るさで広がるロシアの村(第2幕)、二つの真っ赤な太陽が燃えるオレンジの麦畑(第3幕)、そして漆黒の闇に赤く滲むサンクトペテルブルクの街並み(第4幕)──「色彩の海の中に溺れるような体験」と同館の高橋しげみ学芸員が語るその空間に、訪れる者は圧倒される。
シャガールと舞台芸術のかかわりとしては、パリ・オペラ座(ガルニエ宮)の天井画やニューヨークのメトロポリタン・オペラの壁画を思い浮かべる人も多いだろう。しかしシャガールが舞台芸術に注いだ情熱は、そうした記念碑的な仕事にとどまらない。亡命という極限の状況のなかで取り組んだバレエ「アレコ」の舞台美術には、故郷への思いと芸術への信念が凝縮されている。

バレエ「アレコ」のための背景画全4点は、ナチスの迫害を逃れてフランスからアメリカに亡命したシャガールが、バレエ・シアター(現アメリカン・バレエ・シアター)の依頼を受けて1942年に制作したものだ。ロシア出身のユダヤ人画家である彼は、ナチスの台頭によりフランスでの生活が危機に瀕し、前年にアメリカへと渡った。亡命した翌年、彼のもとに舞台美術の依頼が届く。
プーシキンの詩「ジプシー」を原作に、振付はセルゲイ・ディアギレフが率いる20世紀初頭の芸術界に革命をもたらしたバレエ団、バレエ・リュスで活躍したレオニード・マシーン、音楽はチャイコフスキー『ピアノ三重奏曲 イ短調 作品50「偉大な芸術家の思い出のために」』――偉大な芸術家との協働に、シャガールは夢中になったという。下絵をニューヨークで描き、本制作はメキシコで行い、約1ヶ月で4幕分の大画面を仕上げた。衣装制作には妻ベラも深く関わったという。アメリカを代表するバレエ・カンパニーのレパートリー作品として歴史的なステージを彩った作品が、今なぜ日本の美術館が収蔵し、「美術作品」として展示されているのだろうか――。
舞台から美術館へ──《アレコ》が辿った80年

現代美術家 奈良美智の巨大な犬の立体作品「あおもり犬」でも知られる。
こうした収蔵の背景には、美術館の創設理念がある。青森県立美術館は開館当初から、絵画や彫刻といったファインアートにとどまらず、音楽、演劇、ダンスなどパフォーミングアーツをも総合的に推進する場を目指していた。舞台のために描かれたシャガールの背景画は、その理念を体現する象徴的な存在として、アレコホールの中心に据えられてきた。今回のMoNでの上演に際して先頃開催された記者説明会には、同館の学芸員もオンラインで登壇。高橋学芸員は作品の成り立ちと背景画に込められた意味について語った。「当時のシャガールの故郷を思う気持ち、亡命地にて自らの故郷を思う気持ちというものが、この仕事のモチベーションの背景にあったと思います」。青の夜空に浮かぶ恋人たち、ロシアの村々を染める茜色、黒い夜に滲むサンクトペテルブルクの街並み──事実、背景画にはシャガールの記憶と幻想が溶け合うように満ちている。
人間の本質を突く物語──
バレエ「アレコ」とチャイコフスキーの音楽の魅力

バレエ「アレコ」の原作は、プーシキンの詩「ジプシー」だ。ロシア貴族の青年アレコは、上流社会の生活に飽き足らず、ロマ(ジプシー)の一団に身を投じる。自由と旅への憧れのなか、ロマの娘ゼムフィラと恋に落ちるが、彼女はやがて別のロマの若者へと心を移す。嫉妬に狂ったアレコは二人を死に追いやり、自らも孤独のなかに残される。自由への希求と所有への執着、文明と自然、愛と暴力が交錯するこの悲劇は、プーシキンが1824年に書いた詩でありながら、人間の本質を突く普遍性において今も色褪せない。チャイコフスキーが同じプーシキン原作の「エフゲニー・オネーギン」でオペラの最高傑作を生んだように、ロシアの芸術家の魂は深いところで響き合っている。
この悲劇を彩る音楽もまた、特別な来歴を持つ。チャイコフスキーが1882年に作曲した『ピアノ三重奏曲 イ短調 作品50「偉大な芸術家の思い出のために」』は、もともとピアノ、ヴァイオリン、チェロのための室内楽曲だ。親友であったピアニスト、ニコライ・ルビンシテインの死を悼んで書かれたこの作品は、底なしの悲しみと激しい情念が交錯するドラマ性の高い傑作として知られる。バレエ上演にあたってはオーケストラ編曲版が使用されるが、『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』の三大バレエが華やかなファンタジーを描くのとは対照的に、この音楽が持つのは人間の孤独、嫉妬、狂気といった生々しい心理の深みだ。所有欲と自由が衝突するアレコの悲劇に、これほど相応しい音楽はないともいえる。
「門」と「問」が交わる場所── MoN Takanawaとは

隈研吾建築都市設計事務所が外装デザインを担当した。
バレエ「アレコ」を上演するMoN Takanawa: The Museum of Narrativesは、2025年に東京・高輪に誕生した新しい複合型ミュージアムだ。隈研吾建築都市設計事務所が外装デザインを担当したスパイラル状の建物は、ミュージアム、劇場、古典芸能の上演空間など、通常はカテゴリーが分かれる機能を横断的に包含する。「MoN」の名に込められた二つの意味について、記者説明会に登壇したアーティスティック・ディレクターの内田まほろは「好奇心をひらく〈門〉と、未来をつくる〈問〉に出会う場所」と語る。自由な「知」と「美」の組み合わせを標榜するこの施設は、「百年先から文化をつなぐ」ことをミッションに掲げている。
館内には、約1000席(スタンディング時は2000名規模)のシアター空間「Box1000」をはじめ、館内最大の展示スペース「Box1500」、自由度の高い実験空間「Box300」、約100畳の畳スペース、屋上ガーデン「月見テラス」など、多様な場が共存している。開館記念のテーマは「Life as culture - 生きるは、ブンカだ」。手塚治虫「火の鳥 未来編」を原作とした新しいマンガ体験「MANGALOGUE(マンガローグ)や万博パビリオンの再演など、表現の境界を問い直すプログラムが展開されてきた。
LEDが実現する、シャガール本来の舞台空間

MoN Takanawaでのバレエ「アレコ」上演のきっかけとなったのは、2024年に青森県立美術館で行われた公演だった。アレコホールに特設ステージを設け、第4幕の背景画を背景に第1幕から第4幕までを通して上演するという異例の試みで、内田はこの公演を現地で体験した一人だ。感動とともに、ある「もどかしさ」も覚えたという。「4幕目の背景画の前で1幕から4幕までが上演されたのですが、本来シャガールが意図したように、物語に合わせて背景画が変わるバレエを見てみたいと。関係者の皆さんにも同じ思いがありました」(内田)。
アレコホールの背景画は壁に固定されており、本来のバレエのように幕ごとに切り替えることはできない。今回の上演会場となるMoN TakanawaのBox1000では、大型LEDスクリーンが常設されており、幅21メートル、高さ9メートルのそのスクリーンを舞台背景として活用すれば、シャガールが本来意図した演出──幕ごとに色彩の世界が変わり、物語と絵画が呼応する──を現代の技術で実現できる。こうして、美術館、舞台芸術、デジタル技術が交差する企画が動き出した。

高精細なLED表示の実現にはキヤノンが技術協力を担った。青森県立美術館で実物を撮影し、ディープラーニングによるアップスケーリング技術で高解像度化することで、色や輝度を損なわない精細な画像を生成している。注目すべきは、経年変化した原画をデジタル技術で「復元」するのではなく、「なるべく目で見たままに近づける」方針がとられた点だ。80年以上の時を経た作品の現在の姿を、そのままLEDに映し出す。それはシャガールの絵が積み重ねてきた時間そのものを舞台に持ち込む試みでもある。
青森県立美術館館長・平田オリザは、この上演の意義について「デジタルの力を借りて、実寸大で、しかも背景画として初演に近い形で再現されているのはとても意義深く、価値のある上演」と述べる。さらに、「青森県立美術館でシャガールをご覧になった方にもぜひおいでいただきたいし、この公演を見た方が今度は青森へ足を運んでくださるような、相互交流のきっかけになれば」と続けた。
振付家・宝満直也が描く 絵画と身体が響き合う「アレコ」

大川航矢。撮影:西川幸治
振付・演出を務めるのは、気鋭の振付家、宝満直也。文化庁の海外研修員としてドイツで研鑽を積み、古典の再解釈やストーリー性の高い全幕バレエで注目を集める存在だ。2024年の青森県立美術館公演でも同じ役割を担い、今回が再演にあたる。ただし、今回は「再演」という言葉では括りきれない変化がある。舞台空間が変わり、LEDによって幕ごとに背景が切り替わる。それに合わせてダンサーの人数・編成も増やし、振付も大幅に作り直している。
宝満は演出の核心について語る。「シャガールの《アレコ》は、絵画作品として青森県立美術館に足を運ぶ人がいるほど、芸術として完成されている。そこにバレエを重ねるにあたって、絵の邪魔にならない演出・振付であることには強くこだわりました。ただ、絵の存在感に遠慮するということではなく、絵だけでは見えなかったものがバレエと混ざることで見えてくる、チャイコフスキーの音楽も、絵と踊りが重なることで聞こえなかった音が聞こえてくる──そういう豊かな関係性を、舞台の上で実現したいと思っています」。

タイトルロールのアレコ役のダブルキャストにも注目が集まる。青森県立美術館の公演でも同役を踊った大川航矢は、青森出身。世界的なコンクール受賞歴を持ち、現在は牧阿佐美バレヱ団のプリンシパルとして活躍する日本を代表するバレエダンサーだ。そしてハンブルク・バレエ元プリンシパル(現ゲスト・プリンシパル)のアレクサンドル・トルーシュが加わる。宝満は「同じ振付でも、踊るダンサーによって人物の解釈や関係性がまったく変わってくる」と語り、キャストごとに細部の振付を変えながらリハーサルを重ねているという。異なる個性を持つ二人がどのようにアレコを体現するか、それ自体がこの公演の大きな見どころとなる。

絵画鑑賞から空間体験へ──アートファンが見るべき理由
バレエ、美術、音楽──今回の「アレコ」はそれらの垣根を越えた企画でもある。劇作家・演出家として国際的に活躍する平田オリザは、この公演が持つ越境的な意味をこう語る。「欧米では美術、音楽、バレエ、演劇というのは境目がほとんどありません。日本では細分化されてしまうので、今回の公演がそういう垣根を払う機会になればいいと思います」。MoN Takanawaの内田もまた、「バレエが好きな方だけに向けたショーではなく、普段バレエを見慣れていない方や、アートなど違うジャンルの芸術を好きな方にも興味を持っていただけるよう、鑑賞前の導入プログラムや言語・障害の壁を取り除く工夫も含め、プログラムを丁寧に考えていきたい」と語った。
「静止した絵画」として展示されてきた作品を、本来の文脈──舞台背景として機能するダイナミックな空間──へと連れ戻す試みは、アーカイブと創造の関係を問い直す実践でもある。デジタル技術がそれを可能にしたことで、「保存」と「上演」という行為がはじめて共存できるようになった。青森県立美術館のアレコホールで色彩の海を体感したことのある人には、その絵画を「鑑賞」するのではなく「体験」する機会として。シャガールやバレエにこれまで触れる機会がなかった人には、絵画と身体と音楽が溶け合う新しい扉として。バレエ「アレコ」は高輪で、どちらの来場者にも、初めて見る景色を約束している。