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ポスト戦後美術の寵児、
田中信太郎の芸術をいま読み直す

「田中信太郎──意味から遠く離れて」が、世田谷美術館で6月28日まで開催中

内覧会・記者発表会レポート

世田谷美術館で、2026年6月28日(日)まで開催中の「田中信太郎──意味から遠く離れて」展 展示風景より
《◯△□〝萌〟〝凛〟〝律〟》2001年 田中信太郎アトリエ
世田谷美術館で、2026年6月28日(日)まで開催中の「田中信太郎──意味から遠く離れて」展 展示風景より
《◯△□〝萌〟〝凛〟〝律〟》2001年 田中信太郎アトリエ

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文・中島文子

1960年代以降の前衛美術で先鋭的な表現活動を行った田中信太郎(1940-2019)。篠原有司男に惹かれて加わったネオ・ダダでの活動、ミニマルな造形作品、平面と立体を組み合わせた作品、晩年まで変化することを厭わず、しかし時勢に流されることもなく、常に視ることを基点に美術の本質を追求した。その芸術の軌跡を振り返る回顧展「田中信太郎──意味から遠く離れて」が、世田谷美術館で開催中だ。

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「田中信太郎──意味から遠く離れて」
開催美術館:世田谷美術館
開催期間:2026年4月25日(土)〜6月28日(日)
世田谷美術館 展示風景より、 《彼岸の陽炎、あるいは子宮の彼方から》1992-1993 田中信太郎アトリエ
世田谷美術館 展示風景より、 《彼岸の陽炎、あるいは子宮の彼方から》1992-1993 田中信太郎アトリエ

田中の作品は、越後妻有アートトリエンナーレの《◯△□の塔と赤とんぼ》をはじめ、パブリックアートが知られているが、今回のようにまとまって作品を見る機会はあまりない。美術館での個展は、生前は2001年の国立国際美術館、没後1年の2020年に開催された市原湖畔美術館のみで、前衛美術の最前線で活躍した作家の仕事を考えると、決して多いとは言えないだろう。

本展は、田中が1978年まで世田谷区にアトリエを持ち、活動の拠点にしていたという縁から企画された。約40点もの作品が時系列に並び、作家の詩的な言葉と共に紹介される。

展示風景より、日立のアトリエにて 2003年 撮影:大谷健二
展示風景より、日立のアトリエにて 2003年 撮影:大谷健二

ネオ・ダダの熱狂から、ミニマルな表現で才能を開花

田中信太郎は1940年に東京で生まれ、太平洋戦争末期の疎開で移り住んだ茨城県日立市で高校まで暮らした。高校卒業後は東京藝術大学を目指したが、結局大学には進学しないまま上京し、作家活動を開始。廃品を使ったアッサンブラージュの作品で二紀展に入選し、19歳という若さで前衛美術家としてデビューした。篠原有司男との出会いをきっかけに、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに参加するが、1年も経たずに解散。さらに作品発表の拠点としていた読売アンデパンダン展の中止も大きかった。次第に反芸術とは距離を置き、独自の表現を突き詰めていく。1960年代後半にはアメリカのミニマル・アートやポップ・アートの雰囲気を纏った作風に転向し、新たなキャリアをスタートさせた。

展示風景より、手前は篠原有司男『前衛の道』、美術出版社 1968
展示風景より、手前は篠原有司男『前衛の道』、美術出版社 1968

1968年の東京画廊での個展「点・線・面」では、点としてのハロゲンランプ、線としてのピアノ線、面としてのガラス板を空間に展開し、インスタレーションの先駆けといわれる作品を発表した。インスタレーションという概念が生まれるのが70年代に入ってからであることを考えると、かなり斬新に受け止められたことだろう。ネオ・ダダから続く田中の活動は、現代美術を牽引した美術評論家たちに注目され、パリ青年ビエンナーレやヴェネチア・ビエンナーレなど国際展にも出品した。また中原佑介がコミッショナーを務めた第10回日本国際美術展「人間と物質」展では、アルテ・ポーヴェラ、もの派、ミニマリズムなど国内外の気鋭の芸術家たちと共に選出された。この展覧会は日本の現代美術を国際水準に位置づけた重要な展覧会とされている。

言葉から離れて、視ることを基点に

田中は1959年から作家活動を開始しているが、本展では70代年以降の作品から展示されている。その理由は60年代の作品はインスタレーションのような形に残らないものも含め、オリジナルで現存しているものが限られているからだ。そもそも美術館に収蔵されている作品自体少ないのだという。

最初に鑑賞者を迎えるのは、国立国際美術館で開催された個展「饒舌と沈黙のカノン」(2001年)のために制作された《◯△□〝萌〟〝凛〟〝律〟》。砧公園に面した扇形の空間に直線に並べられた作品は、支柱部分もそれぞれの形に合わせて構成されている。立ち位置によって視点が変わり、空間に対する認識が更新されていくような不思議な感覚になる。

展示風景より、右手前は《無題D》1972 田中信太郎アトリエ、左は《Pianissimo-A》1974 東京国立近代美術館、奥は《風──ピアニッシモ》1970 田中信太郎アトリエ
展示風景より、右手前は《無題D》1972 田中信太郎アトリエ、左は《Pianissimo-A》1974 東京国立近代美術館、奥は《風──ピアニッシモ》1970 田中信太郎アトリエ

時系列に作品が並ぶ展示室に入ると、床置きされた平面作品《無題D》が目に入る。ヴェネチア・ビエンナーレ(1972年)でのインスタレーションを構成した10点組の作品のうちのひとつだ。じっと覗き込むと、アクリルの中に混ざっている金属の粉が自然の動きで模様を浮かび上がらせているのがわかる。

工業用カーボンを素材にした横長の平面作品《風──ピアニッシモ》は、国内未発表の作品だ。アトリエに保管されていたものだが、キャンバスの木枠についていたシールから、1974年にデンマークのルイジアナ近代美術館で開催された「日本美術展」に出品されたものと判明した。

展示風景より、右から《鉛の胎児》1979 田中信太郎アトリエ、《銅の家》1979田中信太郎アトリエ
展示風景より、右から《鉛の胎児》1979 田中信太郎アトリエ、《銅の家》1979田中信太郎アトリエ

簡素な形態に素材や重さなどの縛り。田中は作者の意図が入る余地がない状況をつくることで、「ものがただある状態」を立ち上がらせた。ミニマルな表現は、もの派の動向と同一視されることもあったが、本人はあくまでネオ・ダダからスタートした作家として、関連を否定していた。しかし、作品の佇まいはやはり似た空気感が漂うことは否めない。同時代を生きる芸術家として感覚的な何かを共有していたのかもしれない。

展示風景より、右から《同体積:銅》1980田中信太郎アトリエ、《同体積:白》1980 田中信太郎アトリエ、《同体積:黒》1980 田中信太郎アトリエ
展示風景より、右から《同体積:銅》1980田中信太郎アトリエ、《同体積:白》1980 田中信太郎アトリエ、《同体積:黒》1980 田中信太郎アトリエ

同じ体積の立方体と直方体を並べた作品は、銅とポリストーンという人造石を素材に制作された。対の物体の関係性は、タイトルですでに完結してしまっており、言葉による解釈を必要としない。同じ空間に並ぶ、企業の商品宣展示のために作られた朱色の3点組の作品は、美術作品ではないが、《同体積》の実践を基に別の形で展開した。

展示風景より、右から《〝ORATORIO〟シリーズ(座)》、《〝ORATORIO〟シリーズ(卓)》、《〝ORATORIO〟シリーズ(門)》田中信太郎アトリエ
展示風景より、右から《〝ORATORIO〟シリーズ(座)》、《〝ORATORIO〟シリーズ(卓)》、《〝ORATORIO〟シリーズ(門)》田中信太郎アトリエ

大病を経て、新たな境地へ

作品を表現するときに、余計なものを削ぎ落とし、求心的に本質に近づいていくような手法を取っていた田中だが、1983年に耳下腺がんを発症、療養期間を経て、作風が大きく変化する。

《風景は垂直にやってくる》1985 日立市郷土博物館
《風景は垂直にやってくる》1985 日立市郷土博物館

復帰後に発表した、平面と立体を組み合わせた《風景は垂直にやってくる》は、それまで切り捨ててきた周縁のものや中間の状態についての思考を表しているような作品だ。蛇行する黒い線はナイル河をイメージして描かれたが、牡丹色の斜めの線は、重力で垂れる絵の具の物質性を生かし、前に立つ銅のオブジェは、成形した後に風雨に晒し腐食させた。作者が介在しない時間が作為と無作為を結び、新たな景色を生み出している。

《長いソナタ》1988 株式会社アートフロントギャラリー
《長いソナタ》1988 株式会社アートフロントギャラリー

田中が育った日立市の実家は、太平洋の水平線が視界を越えて広がる崖の上にあったのだという。日々当たり前のように目にしていた風景が、自然と呼び起こされたのだろうか。85年頃から、波のモチーフが作品に登場するようになる。やわらかく隆起する波は、地球のリズムと静かに共振しているかのようだ。

理想の平面作品を求めて

1990年代〜2000年代にかけての作品を紹介する展示室では、金属の立体作品に加えて、いくつかの平面作品が並ぶ。

展示風景より、右奥から《韓(HAN)―海を前にして》1991 日立市郷土博物館、《無域》1999 東京国立近代美術館、《偏光》1999 田中信太郎アトリエ、手前中央《波のソナタ》1992-1993 田中信太郎アトリエ
展示風景より、右奥から《韓(HAN)―海を前にして》1991 日立市郷土博物館、《無域》1999 東京国立近代美術館、《偏光》1999 田中信太郎アトリエ、手前中央《波のソナタ》1992-1993 田中信太郎アトリエ

1965年の初個展でトランプのマークの一部を拡大して描いた作品で注目されて以降、絵画による個展の機会はなかったが、1991年に開催された東京画廊の個展では「韓(HAN)」というシリーズから平面作品を発表した。

また、エルサレムの状況から着想した立体作品《無域》にも注目したい。田中の作品の中では珍しく社会的な問題を背景にした作品だ。十字架の縦横の長さは等しく、◯△□のエレメントが中央で交わる。言葉少なに核心をつく表現に心を打たれる。

展示風景より、右から《Heliotrope 2008》2008 石橋財団アーティゾン美術館、《羽化》2008 石橋財団アーティゾン美術館
展示風景より、右から《Heliotrope 2008》2008 石橋財団アーティゾン美術館、《羽化》2008 石橋財団アーティゾン美術館

2008年に制作された《Heliotrope 2008》、《羽化》は、現在はアーティゾン美術館の収蔵作品となっているが、生前は発表の機会がないまま、アトリエに温存されていた。色や表面感の印象は強いが、どこか儚さが漂う。絵筆で描くのではなく、素材や技法を複雑に組み合わせながら、田中は理想の平面作品を求めて取り組んでいた。

展示風景より
展示風景より

会場の壁にある詩的な言葉は、広大な芸術の海をたゆたいながら、感性を研ぎ澄ませ、創造にひたむきに向き合い続けた作家のまなざしに重なる。田中本人がそうしたように、私たちも意味から遠く離れて、作品と向き合ってみたい。「視ること」を通した個人的な体験の内に、何かの反応が起こることを期待しながら。

本展の最後には、倉俣史朗が撮影した田中の記録映像をみることができる。2人は仕事を共にすることが多く、互いに刺激合った盟友だった。創造性に満ちた当時の空気感も含めて、展覧会を最後まで存分に楽しみたい。

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世田谷美術館|Setagaya Art Museum
157-0075 東京都世田谷区砧公園1-2
開館時間:10:00〜18:00
会期中休館日:月曜日

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