世界遺産 元離宮二条城 国宝 二の丸御殿「(大広間)三の間」特別入室
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- by morinousagisan

1626年(寛永3年)9月6日、後水尾天皇は徳川将軍家の招きに応じて二条城を訪れ、5日間滞在しもてなしを受けました。この出来事が「寛永行幸」です。今年は寛永行幸から400年目にあたり、「寛永行幸四百年祭」として京都市内では様々な催しが開催されています。京都市内の美術館、博物館でも関連の企画展が次々と開催されます。12月6日には「寛永行幸行列の再現イベント」として、参加者を募って実際に御所から二条城まで行列が再現される予定です。
二の丸御殿 の「大広間」は、将軍との公的な対面所が設けられた棟です。この夏は、いつもなら廊下から眺める「三の間」に特別に入室して見学できる機会となっています。
「寛永行幸」を前に、天皇をお迎えするために二条城は大改修を行いました。二の丸御殿の障壁画は狩野派によって一新されました。この狩野派あげての一大事業を率いたのは、当時25歳の狩野探幽でした。
現在、二の丸御殿障壁画は、模写が制作され、御殿内の原画と模写画は、はめ替えられています。「三の間」の障壁画は、狩野探幽筆『松孔雀図』で、障壁画は眩いばかりに絢爛豪華です。天井画と欄間、釘隠しは400年前のままです。
「三の間」と「二の間」、「三の間」と「四の間」の間にある欄間は、厚さが35㎝ほどもあり両面に異なった模様が透かし彫りされています。現在は彩色の多くは剥落していますが、孔雀の羽の金彩は照明が当たるとひときわ目立ちます。堅牢で豪華、重量もそれなりにありそうです。天井画は《群青地金菱輪違内に唐花》「紺地の唐花文様を地として、金色の線で四つの輪を編んで菱形を作り、その中に唐花を配した文様が連続して描かれています」と解説されています。大きな釘隠しは《花熨斗形釘隠》で、牡丹を熨斗紙で包んだ形をしており、墨差しすることで金が際立つように工夫されています。欄間、天井、釘隠しも技術力が高く、色彩感覚とデザイン性もとても優れています。

「三の間」特別入室後、そのイメージをしっかり持って、障壁画の原画が展示されている「二条城障壁画 展示収蔵館」へ向かいます。
令和8年度「二条城障壁画 展示収蔵館」 シリーズ 寛永行幸400年 夏期原画公開『将軍、着座す ~〈大広間〉三の間~』が開催中です。障壁画の原画が展示されているこちらは撮影可(フラッシュ禁止)です。そこで撮影した画像を掲載しています。

寛永行幸の4日目、9月9日には、二の丸御殿大広間の南側屋外に能舞台を設け、「猿楽(能)」が上演されました。能舞台は大広間の南側から約7m離れたところに北向きに設置されたことが当時の絵図などから分かっているそうです。
後水尾天皇は、能舞台の正面にあたる二の間から御簾越しにご覧になったそうです。「南側に御簾が掛けられ、そのそばに御座畳を敷いた「茵」(しとね:座るためや寝るために敷くマットや敷物のことを指す古語)が設けられ、大床を背景に観能された」と解説されています。演能は1日続き、『猩々乱』など現在でもよく知られる演目が演じられたようです。この日のために特別に作られた長い謡を、演者が忘れてしまったという 一幕もあったようです。
秀忠の五女 和子は、後水尾天皇に入内して皇后となり、秀忠は後水尾天皇の義父、家光は義兄にあたります。
※9月6日(日)には『寛永行幸四百年祭 記念能』が上演されます。詳しくは⇒◆

大御所徳川秀忠と徳川三代将軍家光は、「大広間」二の間の隣の三の間から能を鑑賞しました。「三の間にも南側に御簾を掛け、席の背後に屛風を立て、後ろの四の間との境にも御簾が掛けられました」と解説されています。

「三の間」は、金地に巨大な松が描かれ、その北面の端の大きな幹に孔雀が一羽描かれています。東と西の隅に大木の松を描き、勇壮ながらも余白を生かし、枠内にきっちり収めて描かれ、緊張と均衡、安土桃山時代の障壁画とは一線を画し、安定した時代にあった障壁画となっています。大木の松の枝が所々ポキッと折れているのは老松であることを表現しているのでしょう。。

嘴の先が丸い孔雀は、羽根の表現は写実的である一方、足や首が長くて鶴のようにも見えます。

二の丸御殿に後水尾天皇を招き、武家の式楽である能を鑑賞することで、徳川幕府の権威を示したと考えられます。
二の丸御殿では、足を踏みしめる度に鳴るキュッキュッという鴬張りの音が心地よかったです。
夏の特別事業について 詳しくは⇒◆
観覧休館日、開催期間、申込方法、予約方法などご注意ください!
- 国宝 二の丸御殿〈大広間〉三の間への特別入室
- 学芸員による障壁画解説会
- 清流園・香雲亭での朝御膳(完全予約制)