自然と神仏が織りなす吉野・大峯の信仰文化を紐解く 特別展「神仏の山 吉野・大峯-蔵王権現に捧げた祈りと美-」@奈良国立博物館
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- by morinousagisan

「奈良の吉野・大峯」と聞いて思い浮かぶのは?「一目千本の桜の名所」でしょうか、それとも「修験道の地」でしょうか。古来この地は奥深い大自然に囲まれた地でありながら、歴史の表舞台にもたびたび登場してきました。
吉野山から山上ヶ岳の一帯を中心とした紀伊山地に含まれる地域である「吉野・大峯」は、古代から聖域とされ、修験道発祥の地でもあります。
さて、「修験道」とは、自然に対する畏敬の念に、仏教、道教、陰陽道などが融合して成立した日本独自の宗教です。「修験」の「修」は、「苦修練行」、「験」は「霊験」を得ることを意味し、衆生を救済して悟りへと導く道といわれています。修験道の修行者は「修験者」または「山伏」とも呼ばれます。「吉野・大峯」は、修験道の根本道場とされています。
本展は、山岳信仰の始まりから時代を追いながら近世、近代まで6章構成で、国宝16件、重要文化財38件を含む167件の大規模展覧会です。
※出陳品一覧⇒◆
第1章 伝説の地 吉野 役行者と蔵王権現に出会う
修験道の開祖と伝わる役小角こと「役行者」については、奈良時代の『続日本紀』に大和国の葛城山に住んでいたと記載され、平安時代初期の『日本霊異記』には、葛城山と金峯山の間に橋を架けさせたなどの逸話が収められています。
奈良博の展示では、必ずその根拠となる古文書なども展示されている事にもご注目ください。
吉水神社の《役行者倚像および二鬼坐像》3軀 室町時代(15世紀)奈良 吉水神社[通期展示]がお出迎えです。長頭巾を被り、袈裟と蓑をかけて、左手に錫杖、右手に独鈷所を握り高下駄を履く役行者に従うのは、長い柄の斧を手にする前鬼(赤鬼)と水瓶を持つ後鬼(青鬼)です。後方の壁面にも金峯山寺蔵の《前鬼坐像・後鬼坐像》2軀 鎌倉時代(13世紀)奈良 金峯山寺[通期展示]が居ます。四天王像に踏みつけられる邪鬼のユーモラスな表現についつい目がいってしまう私は、これらの赤鬼さん青鬼さんにすっかり心が持っていかれました。京都 観音寺の《男神坐像》1軀 平安時代(11世紀)京都 観音寺[通期展示]の両脇に立つ京都 北野天満宮の《鬼神立像》13軀のうち2軀 平安時代(10世紀)京都 北野天満宮[前期展示]も、邪鬼を思わせる憤怒の像で道祖神の祖型といわれています。
興味深かったのは、《奈良官遊地取》巻第二[後期展示]・巻第三[前期展示]12巻のうち2巻 明治19年(1886)東京藝術大学です。明治19年(1886)に文部省の命により奈良の古社寺の調査に当たった岡倉覚三(天心)とともに、狩野芳崖が「文部省図画取調掛」として奈良に古美術調査に赴いた際に鉛筆で描いた写生画です。
同年に岡倉覚三が洋式のノートに鉛筆で記した記録《奈良古社寺調査手録》1冊 明治19年(1886)東京 日本美術院[前期展示]です。第6章で紹介される明治期の吉野の社寺の歴史にも深い関係があります。
本展で目に焼き付けておきたい展示が、女人禁制の大峯山寺から3日間かけて徒歩とトロッコを使って下山したという、大峯山寺本堂(山上蔵王堂)内陣にまつられる秘仏本尊の《蔵王権現立像》1軀と本堂内の西脇壇にまつられる5軀の《蔵王権現立像》です。本尊は、銅造・漆箔、他の5軀は、銅造・鍍金で平安~鎌倉時代(12~13世紀)[通期展示]の作です。大峯山寺には、これらを含む大小30軀以上の銅造蔵王権現像が堂内に安置されていましたが、このうちの26軀はのちの世に山を下りて奈良博の寄託となり、その26軀も展示されています。
この6軀の蔵王権現立像が大峯山寺で梱包され美術専門の輸送者に背負われて山を下りてトロッコに乗るまでの様子は展示室で映像でも紹介され必見です!音声ガイドには同行された奈良国立博物館 美術工芸室長 山口隆介さんがその時のことを語られておりとても興味深く聴き入りました。蔵王権現立像の造形はそれぞれ違っています。
「蔵王権現」は、役行者が大峯に籠って祈願した際に岩の中から涌出したと伝わる修験道独自の尊像です。権現は仏が変じて現れた仮(権)の姿を意味し、衆生を導く本尊を求めた役行者の祈りにこたえて釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊が姿を変えて、青黒身の忿怒相で現れたとされています。鏡像、金銅像、木彫像に表されて、仏と人々を繋いできました。
金峯山寺の国宝「本堂・蔵王堂」に安置される日本最大秘仏ご本尊「金剛蔵王大権現三体」は、実際に目の当たりにすると想像を超え「凄かった!」としか言いようがないのですが、本展では、大型スクリーンにVR映像で再現されてその迫力が体感できます。
第2章 金峯山をめざして 藤原道長の埋経
平安時代になると、吉野から大峯山上ヶ岳にいたる一帯は黄金を埋蔵する霊山「金峯山」と呼ばれるようになりました。その黄金は、弥勒が現れるときに用いるもので、蔵王権現が守護しているとの説話が広まりました。末法の世に入ると信じられていた10世紀後半以降には、弥勒下生の地とされた金峯山へ参詣する(御嶽詣)が天皇や貴族らに広まりました。
時の権力者であった藤原道長も金峯山詣でを発願し、紺紙に金字で自ら『法華経』を書写しました。疫病などの流行で長徳4年(998)の御嶽詣では叶いませんでしたが、9年後の寛弘4年(1007)、道長42歳の年(厄年に当たります)に御嶽精進と呼ばれる潔斎をして新たに書写した経と共に金銅製の経筒に納めて金峯山に埋納しました。これは日本で造営された最初の経塚で、平安後期以降に盛行しました。
国宝《御堂関白記 寛弘四年 藤原道長筆》1巻 平安時代 寛弘4年(1007)京都 陽明文庫[前期展示]
国宝《藤原道長経筒(金峯山経塚出土)》1口 平安時代 寛弘4年(1007)奈良 金峯神社[通期展示]
この経筒の銘文と道長の日記は、経文の書写や埋納、御嶽詣の詳細を伝えています。道長の曾孫の師通も曽祖父に倣って御嶽詣し、その際の願文と自筆の経巻が伝わっています。これらの経文と経筒は、江戸時代元禄年間の山上本堂の再興の際に出土したと考えられており、経巻は現在各所に分蔵されています。これらとは別に近年、道長、師通の経巻の断簡が金峯山寺で大量に発見され、3年をかけて保存修理が実施され、この度全18巻が修理後初公開されています。修理の様子も映像で紹介されています。
藤原道長筆の「紺紙金字経」は、経筒に立てて収められていたために、全ての料紙の下半分が失われてしまっています。が、修理後の道長の紺紙金字経には、道長自ら1字1字実直に書写した金字がはっきり見え、御堂関白日記の字と見比べても道長の祈りも伝わってきます。
第3章 ひろがる信仰世界 修験者・縁起・曼荼羅
金峯山や熊野への参詣が盛んとなり、参詣道も整えられました。金峯山には多くの神々がまつられていました。修験道組織も形成されると修験者の守護神として神像が造られ、吉野の神仏の世界を表した吉野曼荼羅が多く描かれました。
第4章 後醍醐天皇 吉野へ 山上の新政権
吉野といえば日本史で忘れてはならない後醍醐天皇(1288-1339、在位1318-39)が南朝を開いた地です。中高の授業で建武の新政と南北朝時代の歴史を習ったときに「なんで吉野なの?」と不思議に思いませんでしたか。そんな疑問もこの展覧会が解決してくれました。
足利尊氏に追われ、京都を逃れた後醍醐天皇は吉野へ向かいました。吉野山は行宮となりここに南朝が開かれました。後醍醐天皇は密教に帰依し自らも修法を行っていました。
重要文化財《後醍醐天皇像》1幅 南北朝時代(14世紀)神奈川 清浄光寺(遊行寺)[前期展示、後期は模本が展示されます]
この御影で、後醍醐天皇は即位の時に着る礼服の上から袈裟を着て、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴を握って、密教尊と同じ手の構えをしています。吉野に入ってわずか3年後にこの地で崩御し、如意輪寺の傍らに陵墓が営まれました。
後醍醐天皇の崩御と相前後して造立されたのが、金峯山寺仁王門に安置される金剛力士像です。山深い吉野の地で5mを超える巨大な金剛力士像が金峯山寺を護っていることを実感します。像内納入品と像内墨書がこの時期の吉野山の状況を伝えています。現在、仁王門は解体修理中のため、この力士像も奈良博の仏像館へ遷座されています。
※「特別公開 金峯山寺仁王門 金剛力士像」については⇒◆ 今年の秋、令和8年9月13日までの公開ですご注意ください!
後醍醐天皇陵を守る如意輪寺の本堂に安置されている秘仏本尊が寺外初公開です。造形のバランスが良くてとても美しい。近くでじっくり拝見してください。
《如意輪観音坐像》1軀 鎌倉時代 延慶3年(1310)奈良 如意輪寺[通期展示]
第5章 豊臣秀吉 華の宴 神木の桜花に詠う
天下統一を成し遂げた秀吉は、文禄3年(1594)に徳川家康、加藤清正、前田利家、伊達政宗など総勢5000人も従えて吉野で盛大な花見を行いました。吉水院(吉水神社)を本陣としました。金峯山寺蔵王堂前では、能も上演されました。当時能に熱中していた秀吉は自身の事績を能に仕立てた新作能を自ら演じたそうです。
時を同じくして秀吉の弟・秀長や息子の秀頼によって金峯山寺蔵王堂や吉野水分神社本殿が再建され、室町時代から江戸時代初期の塔頭の再建にも豊臣家が支援しています。
※後期展示ですが、重要文化財《吉野花見図屏風》六曲一双 安土桃山時代(16世紀)京都 細見美術館[後期展示] については、昨年の春に「広がる屏風、語る絵巻」@細見美術館で拝見してアートブログに書いておりますので参考まで ⇒◆
第6章 近世・近代の吉野と奈良
明治期には「神仏分離政策」が吉野にも吹き荒れました。神仏判然令によって神社から仏教色を排除することが命じられ、明治5年(1872)の修験宗廃止令により修験道は制度的に解体され、修験者は還俗して真言、天台のどちらかに帰属することになりました。蔵王権現を神号に改めて金峯神社を本社として、下山蔵王堂は「口ノ宮」、山上蔵王堂は「奥ノ宮」とし、明治7年(1874)には金峯山寺は廃寺となってしまいました。しかし明治19年(1886)に天台宗修験派として修験道の再興が図られて金峯山寺は寺院として復興、昭和23年(1948)には大峯修験宗(のちに金峯山修験本宗と改称)が独立して、山上蔵王堂は大峯山寺となって、金峯山寺とは切り分けられました。
このような歴史の中で諸堂にあった仏像も流転していきました。明治7年(1874)山内諸堂の仏像は吉野の衆議所であった密場院へ遷され、明治16年(1883)にはこの地に櫻本坊が移転復興します。大正4年(1915)に櫻本坊本堂内を撮影した古写真(「日本美術院彫刻等修理記録」のうち)が奈良博に所蔵され、当時の様子を伝えています。名古屋の実業家近藤友右衞門(二代)が寺院存続のために多額の寄附をし、そのお礼も兼ねて贈与の形で近藤家へ百体余りが譲渡されました。その目録も奈良国立博物館に所蔵されています。私財を投じるとはこのことでしょう。近藤友右衞門に譲渡された多くの仏像は戦後に散逸し所在の確認できるものは多くありません。

平成25年に海を渡った蔵王権現像が里帰りしました。ロサンゼルス・カウンティ美術館が入手する前は京都の個人がお持ちだったそうです。京都・成相寺蔵の蔵王権現像は、本像を江戸時代に模して造った像であることが分かりました。役行者が大峯で蔵王権現を感得して、その姿をヤマザクラの木に刻んで山上山下におまつりしたのが大峯山寺と金峯山寺の始まりとされています。この蔵王権現像の額の上の天冠台正面に桜の形をした金銅製の飾りをつけています。背景は国立文楽劇場の舞台装置を制作している関西舞台の協力を得て人形浄瑠璃文楽「義経千本桜」道行初音旅の段の満開の吉野の桜が再現されています。頼朝に追われた義経が吉野に逃れ、さらに山深くへ逃れるために吉水院で静御前と別れます。
音声ガイドのナビゲーターは、大河ドラマ「光る君へ」で藤原道長を演じた柄本佑さんです。「光る君へ」の中の道長御嶽詣がよみがえりました。柄本さんへのインタビューはYouTube「なららチャンネル」で紹介されています。
本展覧会を観た上で吉野へも実際お出かけになってはいかがでしょう。

【開催概要】特別展「神仏の山 吉野・大峯-蔵王権現に捧げた祈りと美-」
会期:2026年4月10日(金)~2026年6月7日(日)
前期:4月10日(金)~5月10日(日)/後期:5月12日(火)~6月7日(日)
※会期中、一部の作品は展示替えを行います
※展示作品、会期等については、今後の諸事情により変更する場合があります
会場:奈良国立博物館
開館時間:午前9時30分~午後5時(入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜 ※ただし4月27日(月)、5月4日(月・祝)は開館
観覧料:一般 2,000円(1,800円)/高大生 1,500円(1,300円)/中学生以下 無料 ※( )内は20名以上の団体料金 詳しくは⇒◆
お問い合わせ:050-5542-8600(ハローダイヤル)
展覧会サイト:https://tsumugu.yomiuri.co.jp/yoshino_omine2026/index.html
※金峯山寺HP:https://www.kinpusen.or.jp/ 吉水神社HP:https://www.yoshimizu-shrine.com/
(注)「吉水院」は「吉水院」、「吉水神社」の「吉」の上は正しくは「土」ですが、その字が変換できないためどちらも「吉」となっています。