「孤高の画家」ですが、「孤独な人」ではなかった洋画家 髙島野十郎
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- by morinousagisan

大阪中之島美術館でチラシを手にした時から楽しみにしていた「没後50年 髙島野十郎展」が大阪へ巡回してきました。
千葉県立美術館での開催時に日曜美術館でも紹介され、大きな反響があったのではないでしょうか。「あの写実の画家って誰なんだ!」とか「東大農学部首席卒業の画家なのか」「あっ、蝋燭の画家は、この人だったのか」とか。
本展は、郷土の作家として福岡県立美術館の地道な調査研究に、巡回先である野十郎が過ごした愛知や東京、千葉の美術館学芸員の調査結果、大切にされてきた個人蔵の作品や手紙、最近発見された野十郎の『遺稿ノート』など豊富な資料を盛り込んだ大規模回顧展となっています。
仏教に傾倒していた野十郎は、奈良を訪れて描いた作品はありますが、はて、ここ大阪とは縁も所縁もなそうですが。時代を超えて様々な作家が活躍してきましたが、従来の美術の本流と考えられてきたところから見落とされてきた優れた作家、作品を発掘し紹介することも美術館の果たす役割と大阪中之島美術館は考えてきました。そこで「写実を追究した画家」として、髙島野十郎を日本近代美術史の中に位置づけようとするものです。
展覧会は、プロローグで髙島野十郎をハイライト的に紹介し、トピックの4章構成で多面的に野十郎の画業を辿り、エピローグで全体を振り返る構成になっています。

禅宗で用いられる法衣の一種である「絡子」を着た眼光鋭く正面を向く自画像を野十郎は29歳の時に描きました。
髙島野十郎(1890-1975)は、福岡県久留米市の裕福な造り酒屋の五男として生まれました。詩人である長兄の宇朗から思想的に影響を受け、野十郎作品には仏教思想が根底に流れています。絵を描くのも上手く好きでしたが、学業優秀で旧制第八高等学校(現・名古屋大学)へ進学しこの時期を名古屋で過ごし、東京帝国大学(現・東京大学)農学部水産学科へ入学します。

科学者としての正確な観察眼をもち対象物を正確に写し、後に野十郎が独自の精緻な写実を突き詰めていく礎がここにも見て取れます。3、4年次は特待生に選ばれ、首席で卒業するも、天皇から授与される「恩賜の銀時計」の候補も辞退して、画家へ転身します。

《傷を負った自画像》は東京帝国大学在学中に描いた自画像で、野十郎の内での葛藤を表現しているのかもしれません。野十郎は大正7年(1918)から東京農業大学で非常勤講師を務めていたことが同大学の記録によって近年判明したそうで、《煙草を手にした自画像》はその頃の自画像かと思われます。画家と科学者として後進の指導の二足の草鞋で過ごした時期もありましたが、その間に画家として生きていくことの決心がついたのかもしれません。

野十郎が亡くなった後1980年に福岡県文化会館(現・福岡県立美術館)で開催された「近代洋画と福岡県」展に《すいれんの池》が展示され、無名の画家だった髙島野十郎が世に知られるようになり、1986年には初の回顧展「写実にかけた孤独の画家 髙島野十郎展」が福岡県立美術館で開催され、それ以降次第に野十郎の作品や画業が明らかになっていきました。最初の回顧展のタイトルからしてキャッチーでした。確かに、生涯独り身を通し独学で絵を学び、この時代に日展などの公募展に出品することもなく、美術団体にも属さないことは、評価や販売にも結び付かず、美大出身でもないので美術界との繋がりもありませんでした。
「世の画壇と全く無縁になることが小生の研究と精進です」という野十郎の残した言葉や野十郎と親交のあった洋画家の「人間ぎらい」で、「晴耕雨描の修行僧にも似た生活を貫いた」の野十郎評は、「孤高の画家」という髙島野十郎像を作り上げてきましたが、本展では本当にそうだったのか?と問うています。

野十郎の初期の作品です。当時の日本洋画壇では、雑誌『白樺』で紹介されたゴッホに多くの芸術家たちが衝撃を受けました。その一人でもある岸田劉生と彼が率いた草土社は、この時代の画家たちに大きな影響を及ぼしました。野十郎も例外ではありませんでした。そしてほかの画家同様に北方ルネサンスのアルブレヒト・デューラーを敬愛し、自画像もデューラーに学んで描きました。野十郎も当たり前に同時代の美術史の流れの中にありました。
野十郎は実家の援助を受けてアメリカ経由で渡欧し、パリを拠点として、ヴェネチアも訪れました。当時パリには600人以上の日本人が住んでいたそうですが、彼らと交流を持つことはなかったようで、パリ郊外の風景を描いた作品が多く残されています。髙島家の人たちから野十郎は生涯物心両面で支援を受け、親しく交わっていたことが残された手紙などから伺えます。
野十郎の郷土である久留米は、青木繁、坂本繁二郎、古賀春江の出身地です。野十郎の長兄で詩人の宇朗と青木繫は親しく、坂本繁二郎は郷里出身の画家たちの指導的存在であり、坂本宅での集まりに野十郎も参加していました。寺院で生まれ育った古賀春江とは芸術論を語り合い、仏教思想についても共有することもあったと考えられます。
つまり、髙島野十郎は、孤独だったわけではなく、親しく語り合う人が終生近くにいました。
帰国してからも日本全国を旅して四季折々の景色を描きました。独り身の野十郎は、出かけたいときに出かけて、気に入った土地に長期滞在したそうです。細やかなタッチを重ねながら精緻な描写で独自の風景画としました。それは花を描いた静物画にも通じるところです。

生命力を感じる秋の草花と同じ画面には枯れて種をいっぱいつけたヒマワリが頭を垂れています。奇麗なだけではない、仏教的思想も内包した細密な写実表現となっています。

色とりどりの小菊が、ほとんどすべてこちらを向き、全ての花に焦点が合っています。自分が描かれた花を見ているのか、描かれた1つ1つの花がこちらを見つめているかのような気もします。それはこの作品に限ったことではありません。花瓶の前にそっと置かれた真珠は何を意味しているのでしょう。野十郎は「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」という言葉を残しています。風景画にしてもそこに描かれた木々や葉や草や花、細部までタッチを重ねてすべての対象に焦点を当て丁寧に描いています。若冲の動植綵絵にもみられる「山川草木悉皆成仏」に通ずる仏教の思想が根底にあるように思います。

《無題》は、太陽を見つめてから目を閉じた時に瞼に残る残光や残像を表現したそうです。闇を捉える先に見つけた闇の中に「見える」残光です。
「光と闇」は野十郎の大きなテーマでした。若き頃ゴッホに憧れた野十郎は光の塊である太陽を描き、やがて月を描くようになります。
大阪会場最後の展示室には、照明を落として「蝋燭」と「月」の作品が並びます。
「蝋燭」の作品で知られる髙島野十郎ですが、蝋燭を描いた作品は、個展で展示したり、売ったりするものではなく、あくまで個人に贈った作品です。野十郎と親しかった人たちが手元で大切に所蔵し本展に集結しています。

月夜の風景を描いていていましたが、次第に景色が消え、月だけを描くようになりました。「月」を描くのではなく、月を描くことで「闇」を表現しようとしました。
展示替えはありません。一部を除いて撮影可の作品も多いですが、やはり作品1点ずつと対峙して髙島野十郎と語るように観たい展覧会です。
本展の図録には、論考とともに巡回先の担当学芸員さんたちの調査結果や、野十郎の『遺稿ノート』や野十郎が出した手紙の書下し文も掲載されています。野十郎の手紙を読みながら年老いてやはり人恋しかったのかもとちょっとウルっときました。図録を読むと、作品を確かめたくなり再訪したくなりました。心に沁みる展覧会です。
【開催概要】没後50年 髙島野十郎展
- 会期:2026年3月25日(水)~2026年6月21日(日)
- 会場:大阪中之島美術館 4階展示室
- 時間:10:00~17:00 (最終入場時間 16:30)
- 休館日:月曜日 ※4月27日(月)、5月4日(月・祝)は開館
- 観覧料:一般 1,800円/高大生 1,200円/※中学生以下無料 詳しくは⇒◆
- お問い合わせ:大阪市総合コールセンター(なにわコール)06-4301-7285 受付時間 8:00 – 21:00(年中無休)
- 展覧会公式サイト:https://takashimayajuro50.jp/