学芸員冥利に尽きる 特別展 聖徳太子1400年遠忌「聖徳太子と法隆寺」@奈良国立博物館
- 3
- 0
- VIEW784
- by morinousagisan
『月刊大和路 ならら』4月号に特集としてこの展覧会が取り上げられています。そのなかで本展の担当である奈良国立博物館主任研究員 山口俊介さんは「聖徳太子1400年遠忌という節目に立ち会える幸運を感じ、とても光栄」と語っていらっしゃいます。
本展は、法隆寺の寺宝が最大規模で一堂に会し、「法隆寺献納宝物」がまとまって奈良に里帰りする、100年一度の展覧会です。
さて、予約時間を少し過ぎて新館入り口まで人の列は全く見当たらず、誘われた先はいつもの入り口ではありませんでした。そうこの展覧会は逆向きに進む展示となっていました。
では、5章構成の各章ごと私が特に気になった作品をご紹介したいと思います。
第1章 聖徳太子と仏教興隆:聖徳太子その人と最初期の日本仏教を概観
・御物『聖徳太子二王子像(唐本御影・法隆寺献納)』紙本著色 奈良時代 8世紀 宮内庁所蔵(4/27-5/16)
聖徳太子を描いた最古の肖像画です。こちらは限られた期間だけの展示で、「御物」となった奈良時代8世紀の原本が観たかった。奈良博のチラシ等での画像は5/18~展示される奈良博所蔵の模本で、明治30年(1897)の和田貫水筆です。昭和の私たちのイメージする聖徳太子のお姿で、お札の聖徳太子のお顔でした。
東博では、東博所蔵 江戸時代・天保13年(1842)狩野(晴川院)養信筆が展示される予定です。
・『夾紵棺断片(きょうちょかんだんぺん)』飛鳥時代 7世紀 大阪・安福寺蔵
見たところは、表面は黒っぽい木の板のようで、ふーんと通り過ぎてしまいそうなのですが・・・太子の棺の可能性ありと知ると立ち止まってじっと見入る。技法は「乾漆製、絹・漆」とあり、通常は麻布を使うところを、絹を45層漆で貼り重ねたもので、特殊な構造を持つ超高級な棺の断片。説明を読んでみないと分からない展示品の一つです。
公式サイトの解説に「その幅は記録に残る聖徳太子の棺台 (叡福寺北古墳)に一致する。このため太子の棺である可能性が指摘されている。」
太子のお墓は大阪の叡福寺近くにあるということで、叡福寺のHPを見てみると、その周辺には「梅鉢御陵」と呼ばれる5つの御陵(聖徳太子御廟、用明天皇陵、孝徳天皇陵、敏達天皇陵、推古天皇陵)があり、その形は梅の花のようでこのように呼ばれるとのこと。
第2章 法隆寺の創建:法隆寺の荘厳の品々から法隆寺創建当時の姿に迫る
東京会場前期に国宝『天寿国繡帳』が展示予定です。奈良博で展示される『天寿国繡帳残片』のうち、正倉院蔵の6面は初出陳で、4/27-5/9までの展示で拝見しました。飛鳥時代 推古天皇30年(622)頃のもので、小さな断片にも橘妃の聖徳太子への思いも籠っていそうです。
第3章 法隆寺東院とその宝物
太子の死後荒廃していた斑鳩宮の地に天平11年(739)頃に建てられたのが「東院伽藍」で、その中心となるのが夢殿です。八角形円堂の厨子に聖徳太子等身と伝わる秘仏「救世観音像」が安置され、その前方にこの東院伽藍を建立したと伝える「行信僧都坐像」がありました。特別開扉の際に金網越しに見てきました。
この国宝『行信僧都坐像』脱活乾漆造、彩色 奈良時代 8世紀 奈良・法隆寺
は、第3章に展示されていました。
・国宝『聖徳太子絵伝』 秦致貞筆 綾本著色 平安時代 延久元年(1069)10面 東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)
法隆寺東院絵殿の内壁を飾っていた10面からなる現存最古の聖徳太子の伝記絵です。かなり痛んではいるが、絵の内容を各面詳しく説明があり、見比べながらじっくり見ると面白い、上の方に太子様が飛んでいました。4月初めに法隆寺を訪れた際に特別に「絵殿」も公開されており、レプリカの絵伝が嵌め込まれてあり、その様子を実感できました。こちらは奈良会場だけの展示です。奈良博と東博では一部メニューを変えて巡回しますので、ご注意ください。
第4章 聖徳太子と仏の姿
夢殿本尊「救世観音像」のごとく聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとみる信仰が生まれ、太子信仰が盛んになり、多様な太子像が作られるようになります。
・国宝『聖徳太子および侍者像』 木造、彩色、截金 平安時代 保安2年(1121) 奈良・法隆寺
聖霊院秘仏本尊で、聖徳太子500年遠忌に造立されました。聖徳太子と侍者4人がコの字型に配置され再現展示されています。平安時代後期の太子信仰の高まりを背景に制作された傑作です。
太子像は、夢殿の救世観音像とは違った厳しい表情で口が少し開き、威厳に満ちています。それに比して侍者たち、山背大兄王(やましろのおおえのおう/太子の子)、殖栗王(えぐりおう)と卒末呂王(そまろおう/太子の異母弟)、高句麗僧の恵慈法師(太子の仏教の師)4人はなんともおちゃめ。当時の人だって侍者たちを見ればクスッとなったのではないでしょうか。制作者の意図はどうだったのでしょう。27年ぶりの寺外公開となった方々です。
・国宝『観音菩薩立像(夢違観音)』銅造、鍍金
悪夢を吉夢に変えてくださる観音様。今のコロナ禍の世が悪夢でありますように思わず願う。
手の水かきを確認しました。今回の展覧会でお像の指の表現が繊細で美しいと改めて思いました。
第5章 法隆寺金堂と五重塔
建立された順番からいけば西院伽藍が先のはずが、最後の章になった訳がここにきて明らかとなりました。従来の展覧会ならこの展示室から始まっていました。この展覧会のハイライトです。
なんと言っても
・国宝『薬師如来坐像』 銅造、鍍金 飛鳥時代 7世紀 奈良・法隆寺
法隆寺金堂東の間の本尊です。光背裏面の銘文にこの像の由緒が刻まれています。
「用明天皇がみずからの病気平癒のために寺の建立を発願したが、ほどなく亡くなったため、その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が丁卯年(607)に寺と薬師像を完成させた」
明治8年(1875)に東大寺大仏殿で開催された第一次奈良博覧会への出陳以来の寺外への公開となりました。かつて脇侍としてまつられてきた2軀の観音菩薩像とともに往時の様子が再現されています。
飛鳥仏はお顔が穏やかです。特徴的な衣のひだひだもしっかりと拝見。手の指の爪が伸びているのは確認しましたが、足の爪は見逃しました。別途展示の『薬師如来坐像』台座が思った以上に大きかったです。
・国宝『四天王立像 広目天・多聞天』2躯 木造、彩色 飛鳥時代 7世紀 奈良・法隆寺
広目天は国宝展でもお目にかかったことがありましたが、多聞天さんもぐっと近くで拝見。飛鳥時代は四天王像も穏やかな雰囲気で、天王を乗せる邪気はなんともいい表情です。法隆寺の金堂の中は少し薄暗く、結界の向こうのお像は遠い。近づいて見ても後ろの四天王像2躯は見えません。その四天王像をホントに目の前でじっくり拝見しました。
・国宝『塔本塑像』塑造、彩色 奈良時代・和銅4年(711) 奈良・法隆寺
五重塔初層に、心柱を中心にして四面に安置されている塑像群。現地の五重塔で見ることは出来ますが、狭いところから覗くように中を伺いました。現地で見た時よりも目の前の塑像は大きく感じ、涅槃場面に羅漢の慟哭する様、迫真の写実表現が凄い。この時代の工人の技術力の高さを伝えています。
・国宝『玉虫厨子』木造、漆塗、彩色 飛鳥時代 7世紀 奈良・法隆寺
法隆寺大宝蔵院でも見ましたが、奈良博での展示では照明が素晴らしくて、良く見えなかった台座四面の図がはっきりと見えました。「玉虫の羽」を捜しに躍起になっている人も、気持ちわかります。
最後にもう一つご紹介したいとっても魅力的な展示があります。
・国宝『天人』(金堂天蓋付属) 2躯 木造、彩色 飛鳥時代 7世紀 奈良・法隆寺
楽器を手にする天女?平等院雲中供養菩薩の様に華麗さはないけれど、飛鳥時代の仏像を写して鼻が丸くて優しく可愛らしい表情です。
長い準備を経ての100年に一度の展覧会となったのですが、コロナ禍での開催となってしまいました。
コロナ対策には万全を尽くし、展示も間隔をあけ、チケットは事前予約優先で人数も制限されています。私たち観覧者も十分理解し、密にならないようにお互い譲り合って展示を巡ってきました。本展の展示を目の前にすれば、自ずと黙って展示と対峙することになります。
今回まとまっての里帰りとなった「法隆寺献納宝物」から、明治期の廃仏毀釈の嵐は法隆寺であっても例外でなかったことを知りました。明治11年に法隆寺から皇室に寺宝300数十件が献納されました。その見返りに金1万円が下賜されました。京都の相国寺が若冲筆「動植綵絵」30幅を献上して下賜された金額と同じです。終戦後東京国立博物館の所蔵となり、「法隆寺宝物館」へ、一部宮内庁が保管して、皇居三の丸尚古館に収められました。
聖徳太子1400年遠忌の特別展としての「聖徳太子と法隆寺」展が無事会期末を迎えられることを祈るばかりです。
会期:令和3年(2021)4月27日(火)~6月20日(日)
- 前期:4月27日(火)~5月23日(日)
- 後期:5月25日(火)~6月20日(日)
公式サイト:聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」 (yomiuri.co.jp)
奈良国立博物館公式サイト:奈良国立博物館 (narahaku.go.jp)