大阪から始まった大回顧展『展覧会 岡本太郎』
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- by morinousagisan
夏休みの始まりと時を同じくして、大阪中之島美術館で「展覧会 岡本太郎」が始まりました。大阪から始まった本展は、各開催地と岡本太郎との関係を盛り込みながら1年をかけて東京都美術館(10/8-12/28)、愛知県美術館(1/14-3/4)へ巡回します。
本展のキャッチコピーは「本職?人間だ。」絵画や彫刻だけでなく、パブリックアートの制作や建築、家具や食器、テキスタイルデザインなどのプロダクトデザインから文化・芸術論の執筆まで多岐にわたり活動する岡本への「いったい何が本職なのか?」という問いかけへの答え「人間-全存在として猛烈に生きる人間だ」に因んだものです。
岡本太郎が住み、アトリエとしていた南青山の岡本太郎記念館や川崎市岡本太郎美術館が東京近辺にはありますが、万博記念公園に立つ「太陽の塔」はあまりにも有名だけれど、さて大阪は・・・「太陽の塔」の永久保存が決まったものの、修復が完成して内部が鑑賞可能になった2018年に合わせてあべのハルカス美術館で開催された展覧会「太陽の塔」だけで、回顧展は開催されていない。本展が大阪初の回顧展となります。しかも「史上最大のTARO展」岡本太郎の芸術人生を時系列に作品や資料で丁寧に辿りながら、岡本太郎とは一体何者だったのか。彼が遺したものは一体何だったのか。を体感する展示となっています。
(注)本展では、私的利用を目的に限り、映像資料を除くすべての展示物の撮影が許可されています。ただし、静止画のみで動画、フラッシュ撮影、自撮りは禁止されています。
掲載の画像は、主催者の許可を得て撮影したものです。
(画像はすべて©岡本太郎記念現代芸術振興財団)
第1章 岡本太郎誕生 パリ時代
岡本太郎は、人気漫画家であった岡本一平と歌人・小説家・仏教研究家でもあった岡本かの子の長男として1911年(明治44)に生まれた。家庭環境もあったのか、幼少期は入転校を繰り返したようです。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科へ入学しましたが、半年後には父・一平の取材旅行に一家で同行し、1930年18歳の時パリに到着し、太郎は単身そのままパリに残ります。戦火がパリに迫り、最後の引揚船に乗る1940年まで10年間をパリで過ごしました。ルーヴル美術館で観たセザンヌや画廊で目にしたピカソの作品に強い感銘を受けます。語学の習得やパリ大学で美学を学ぶ一方で、前衛芸術家やバタイユなどの思想家と交流を深めました。「ミュゼ・ド・ロム(人類博物館)」に通い、社会学・文化人類学者のマルセル・モースの講義を聴講するなど民族学への興味を深めたことも後の芸術家人生に大きな影響を及ぼしました。自由なパリの地で、若い岡本太郎は最も学識豊かな知識人と交わり、柔軟に吸収して「岡本太郎」の確固たる基盤を築き、パリの地で得た深い知識、体験、経験は彼の生涯のバックボーンとなりました。
滞欧時代に制作して持ち帰った作品はすべて戦火で焼失したとされており、この時代の作品としては、戦後岡本が再制作した本展出展の4点の油彩昨品と1937年パリで出版された初めての画集『OKAMOTO』に掲載された作品だけと考えらえてきました。モノクロの画集『OKAMOTO』収録作品を作品サイズのモノクロ図版にして入口入ってすぐの壁面となっています。再制作された作品の1点《傷ましき腕》1936/49 川崎市岡本太郎美術館蔵 は、岡本初期の作品として有名ですが、図録にバタイユが結成した秘密結社アセファルには、入会に際して前腕に切り傷をつけるという入会儀礼があり、岡本も課されたとあり、この作品に何らかの影響を与えたことは明らかではないでしょうか。
上記に述べた岡本の初期作品の他にパリ時代の作品が見つかったと、7月に入ってから驚くべきニュースが発表され、みなさんもご存のことでしょう。本展開催を機に現所有者から連絡を受けた主催者が署名の筆跡、絵具やキャンバス繊維の分析と詳しい調査を行いました。3作品はパリ時代の岡本太郎が自身の芸術を確立する以前、1931-33頃に描かれたものだろうと推定されています。
第2章 創造の孤独 日本の文化を挑発する
1940年に帰国した岡本は、中国へ出征し、かの地で俘虜生活も含め4年もの過酷な状況下で過ごして1946年に復員しますが、自宅は戦火で焼失していました。呆然と立ち止まることもなく、旧態依然とした日本の美術界に対して戦後の前衛芸術を牽引する存在となっていきました。この章では出征中に描いた作品があり、目が、足がとまります。
この時代に岡本が提唱したのが「対極主義」です。図録によれば「世の中に存在する対立や矛盾を、調和させるのではなくむしろ強調し、その不協和音の中から新たな創造を生み出すという、考えです。」
1949年制作の《重工業》を当時の不穏な世相を反映しているととらえる向きもありましたが、ここに描かれた左下の緑のネギ(有機物・農業)と赤の機械(無機物・工業)対立する要素によって、対極主義の造形的な実現が託されていると解説されています。
1955年の《燃える人》は、1954年のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって被爆した第五福竜丸事件に取材した作品です。第五福竜丸といえばベン・シャーンの《ラッキードラゴン》を思い浮かべる方も多いが、この衝撃的な事件?事故?や原爆は岡本のその後の制作の中に入り込んでいきます。
第3章 人間の根源 呪力の魅惑
1951年東京国立博物館で縄文火焔土器を見て衝撃を受け、その造形美に日本人の根源的な生命観の表れを見出しました。それまでは考古学的資料としてしか見られていなかったことにも今の私たちには驚きですが。農耕文化の弥生的な美や茶の湯や禅の「わびさび」が日本の伝統文化とする考え方に大きな一石を投じたことは大きい。雑誌の取材もあり、全国を旅し、さらに民族学、民俗学的な視点からフィールドワークを行い、岡本自身が撮影した写真が遺されています。本展では写真3点と122枚のスライドショーで展示されています。岡本はパリ時代にマン・レイなどの写真家とも交友関係にあり、ハンガリー出身ブラッサイとは特に親しかったようです。パリ時代に写真についての素養を身につけており、写真もかなりの腕前です。出来るならば122枚のスライドもモノクロ写真作品として、”岡本太郎写真作品の森”の中を巡りたかったです。岡本の民族学的なアプローチはやがて国立民族学博物館への建設に繋がります。縄文と岡本太郎については、岡本太郎激押しの美術史家・山下裕二先生のお話を伺ってみたいところです。※山下先生登壇の関連イベントも9/3に開催されます。
60年代の岡本の作品には、梵字のような、書のような黒い線が躍動しています。フィールドワークでは「呪術」への興味が更に深まり、「芸術は呪術である」とも宣言しています。母・かの子とはパリで帰国を見送ったのが今生の別れとなったが、仏教研究家でもあったかの子の影響はなかったのだろうか。岡本太郎は多くの著作もあり、父一平からは絵の才能を、母かの子からは文才を、そして書家であった父方の祖父からはこの時代に見られるような筆遣いを、それぞれのDNAを継承しています。
第4章 大衆の中の芸術
この章は楽しい!「芸術とは生活そのもの」「芸術は大衆のものである」
所有されることで作品が公開されないことを嫌って、岡本は作品をほとんど売らなかったことで知られています。その一方で、全国70か所以上に設置されるパブリックアートを手掛け、他分野との協働による様々なプロダクトデザインを生み出していきました。そんなユニークな作品の中にはなにやら国立民族学博物館でお目にかかったことがあるようなデザインもありました。
この章では、大阪と関わりのある作品も展示されており、懐かしい方もおいでになるはずです。近鉄バファローズのロゴマークは太郎デザインだったのですね。
油絵具に代わる素材として注目したのが工業生産化が始まったモザイクタイルです。1952年の《太陽の神話》は、岡本が初めてモザイクタイルで制作した作品で、図録解説によれば「この作品において、太陽というモチーフが初めて顔とひとつの人格を持って立ち上がり、後の《太陽の塔》に通じるイメージを形成している」このモザイクタイル作品をみた建築家・坂倉準三が日本橋高島屋地下通路の壁画《創生》を依頼し、やがては丹下健三の旧東京都庁舎に設置された陶板壁画へ繋がります。
外見も端正な丹下健三さんと岡本太郎の協働は、なんだか「対極主義」的でもあるのですが、お互いの才能を認めあってこその賜物ではなかったでしょうか。
第5章 ふたつの太陽 《太陽の塔》《明日の神話》
岡本太郎は、1970年開催の日本万国博覧会(大阪万博)テーマ館のプロデューサーに就任し、丹下健三が作る巨大な大屋根を突き破ぶり、高さ70mにもなる《太陽の塔》建てました。《太陽の塔構想スケッチ》やその内部展示空間にあった《生命の樹 全景模型》も展示されています。丹下の横に広がる巨大な屋根をつき抜け縦に高く伸びる《太陽の塔》も対極的です。
上記画像にある《マスク》《ノン》は、《太陽の塔》の地下展示「いのり」に展示するために制作されました。《太陽の塔》の地下は岡本の提案による露出展示のために急遽「日本万国博覧会世界民族資料調査収集団」(Expo’70 Ethnological Mission )が結成され、世界中から仮面や神像が収集されました。
この時同時進行していたのが、幅30mもある壁画《明日の神話》数奇な運命を辿り、現在は渋谷にある。ドローイングも展示され、放射能という見えない恐怖が漂い、《太陽の塔》と比して全体が黒く覆われています。中心に描かれているのは、放射能に焼かれる人間だそうで、図録によれば「このイメージに人類が苦難を乗り越え、新たに運命を切りひらくためのエネルギーを託している。」とあり希望も描かれているのか。
第5章を観終えて、振り返ってギョッとして小さく声をあげてしまいました。黒々としたいくつもの目がこちらを見ている!
万博を終えて太郎にはまだ26年が残っていました。80年代にはその個性的なキャラクターもあってメディアへの露出も増え、誰もが知る芸術家となっていきました。自らが大衆の中へ入っていったとも言えるかもしれません。晩年はパブリックアートのほかは、絵画作品の発表はほとんどしていなかったそうですが、死後アトリエには膨大なカンヴァスが残されていました。50年代に描かれ、行方不明とされていた作品は、調査の結果106点もの作品に加筆がなされていたことが判明しました。
コロナの感染者数も急増する暑い大阪で、最初から最後まで原色が飛び交い、足を進める展示室にこれでもかこれでもかとエネルギッシュな作品が押し寄せ、クラクラと眩暈もしそうでした。描きたいイメージに手が追い付かないような、せっかちな性格の太郎さんのもどかしさも伝わってくるようでした。一方で戦後の右肩上がりの時代を背景に制作を続けた太郎さん、太郎さんにとって結構いい時代でしたよね。阿部サダヲ流の音声ガイドに救われました。ずっと”爆発”した人生だけれど、確かな知性に裏打ちされており、岡本太郎自身に「対極主義」が内在し、唯一無二の芸術家であったと私は受け止めました。
岡本のエネルギー迸る平面作品だけでなく、造形そのものも面白く、夏休みに小さなお子さん連れでお出かけになってもお子さんたちも十分楽しめる展覧会となっていると思います。(小中学生は無料です!)夏休み自由研究にタローマンや《ノン》が出現しても決して不思議ではない。家族みんなで作品そのものを楽しんでいただきたい。
(画像はすべて©岡本太郎記念現代芸術振興財団)
【開催概要】展覧会 岡本太郎
- 会 期:2022 年 7月23日(土)~10 月2日(日)
※災害などにより臨時で休館となる場合があります。
- 会 場:大阪中之島美術館 4階展示室
- 大阪中之島美術館サイト⇒◆
- 休 館 日:月曜日(ただし、9月19日を除く)
- 開館時間:10:00~18:00(入場は17:30まで)
- 特設サイト:https://taro2022.jp/
- チケット:日時指定制(30分ごと)詳しくは⇒◆
- 関連イベントも多く、詳しくは⇒◆
- お問い合わせ:06-4301-7285(大阪市総合コールセンター)
【参考】
- 図録『展覧会 岡本太郎』2022年7月
※図版が展示順や時系列ではないので、作品を捜すのはかなり面倒でした。
- 『もっと知りたい 岡本太郎』佐々木秀憲著 東京美術 2013年7月
※入門編として展覧会の前に読みました。
※東京展に合わせて『藝術新潮』などが特集ありそうです