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没後50年 鏑木清方展 「45年ぶりの京都です。」

《築地明石町》昭和2(1927)年 絹本着色 東京国立近代美術館蔵

東京での展覧会がSNSで盛り上がりを見せた「没後50年 鏑木清方展」京都への巡回展が始まりました。

京都展での構成は、テーマで区切った東京展と違って制作年代順となって、以下の4章構成で、章の区切りは清方の居住地の変遷と重なり、時代の変わり目でもあります。

  • 1章     木挽町紫陽花舎・東京下町にて(明治)
  • 2章     本郷龍岡町・金沢游心庵にて(大正)
  • 3章     牛込矢来町夜蕾亭にて(昭和戦前)
  • 4章     鎌倉、終の棲家にて(昭和戦後)

展覧会のメインはもちろん2019年に44年ぶりに公開となった《築地明石町》《新富町》《浜町河岸》の三部作です。(こちらは全期間展示)

《築地明石町》が2019年に44年ぶりに見つかったとのニュースにえっそうだったの?と45年前の図録を見直してみるとこの三部作はもとより、《築地明石町》の下絵が出展されていただけでした。あまりにも有名な作品にこの絵は頭に刷り込まれ、観たことがあるような気になっていたのです。京都国立近代美術館(以後「京国近美」)の担当研究員さんは、「この三部作があってこその鏑木清方展です。」と仰っていました。《築地明石町》は京都では95年ぶり!《新富町》《浜町河岸》三部作揃っては関西初となります。

一般に美人画で「西の松園、東の清方」と言われるように、関西では上村松園の気品に満ちた女性像にお目にかかることはあっても、清方の作品となると、関西で所蔵している美術館も京国近美以外では福田美術館ぐらいだそうです。「美人画」という範疇からなーんとなく京セラ美には所蔵があるのでは?と勝手に思い込んでいたのですが、1点もありませんでした。

標題の「45年ぶりの京都です。」は、京都展のチラシ表面のキャッチコピーです。

鏑木清方の展覧会としては、45年前にお向かいの京都市京セラ美術館(当時は京都市美術館)で「近代日本画の巨匠 鏑木清方展 生誕100年記念」が開かれて以来の展覧会となります。昨年末の「コレクター福富太郎の眼」@あべのハルカス美術館で清方大好き福富太郎のコレクションで清方の作品が出ていましたが、昨夏開催の「あやしい絵展」@大阪歴史博物館との関係で《妖魚》の印象が残った人がいらっしゃったかもしれません。日本画家 鏑木清方(1878-1972)の回顧展を開催するにあたり関西ではやはり松園さんほどには知られていないだろうということから、オーソドックスに制作年順に清方芸術の歩みを追う展覧会構成となりました。図録も年代順となっています。清方が大正7(1918)年1月から14(1925)年6月の間に残した制作控帳には自己評価を記しており、京都展では第2章に展示の23作品のキャプションと作品リストに☆の数が記載されていますので、その点もお見逃しなく。自己採点のついた約500点の作品の内、☆3つは16点でそのほとんどが現在所在不明となっていますが、本展では3点が展示されます。☆3つ、清方会心の作《ためさる丶日》(全期間展示)遊女の宗門改めの場面、豪華な衣装を纏った遊女が今まさに踏絵に足を掛けようと右足踵を上げ足の親指に力が入るその一瞬を描き、ゾワッとした気が漂ってきます。唐船模様の黒いビロードの打掛に細かな点描のような印度更紗の帯を前にして、何本もさした鼈甲の簪と揺れながら垂れ下がる金の簪、その細部の細部まで単眼鏡で見尽くしたい。右幅(7/2-7/10展示)と並べて双幅で眺めたい。


《浜町河岸》昭和5(19030)年、《築地明石町》昭和2(1927)年、《新富町》昭和5(19030)年 絹本着色 東京国立近代美術館蔵

東京展開催中には、ぶらぶら美術館博物館日曜美術館、『藝術新潮』や『和樂』での特集に加えて美術系WEBサイトやSNSでの感想と多くの情報が飛び交っていました。TVにもご出演の東京展担当研究員は「美人画だけでない清方を見てほしい。」と強調され、図録のむすびにも「そろそろ清方を『生活を描いた画家』としてはどうだろうか」と書かれています。この点が本展の見どころでありポイントとも言えるかもしれません。しかし、この点については、実は45年前の展覧会委員でもあった河北倫明(当時の京都国立近代美術館長)さんが図録の「『鏑木清方展』によせて」の中で既に述べられていたことでした。「粋なすがたの文人画」河北さんのこの文が秀逸で、清方芸術のすべて語っているように思いました。

清方の画業は、美人画、物語絵、芝居(歌舞伎)絵、風俗画、風景画や肖像画、卓上芸術作品など多岐にわたっており、その背景には、彼の育った家庭環境と江戸下町文化の中で育まれたものでした。


《たけくらべの美登利》昭和15(1940)年 絹本着色 京都国立近代美術館蔵

清方の父は戯作者、新聞人の條野採菊(1832-1902)、清方も幼少期より本が大好きな少年でした。一時は文筆家になりたかったほどで、「こしかたの記」など優れた随筆も残しています。父の勧めで13歳で水野年方に入門し、やがて家計を支えるべく挿絵画家の道を歩き始めます。樋口一葉と泉鏡花はことのほか好きで、泉鏡花との運命的な出会いは挿絵画家としての名声を高めることになりました。憧れの作家泉鏡花との初めて出会いの場面は、鮮明に清方の記憶に残り50年も後に《小説家と挿絵画家》(全期間展示)として描いています。その場にあった細々としたものを配し、清方の手には翌年清方の口絵入りで刊行された「三枚絵」の原稿冊子が見えています。一葉が夭折したために彼女に会うことは叶いませんでしたが、鏡花の「一葉の墓」から想を得て描いた《一葉女史の墓》(5/27-6/12)は初期の代表作の1つです。清方が一緒に暮らしていた祖母や母は大の芝居好き、通った小学校の近くには新富座などの劇場があり、役者や芝居茶屋の子らも同じ小学校に通っていて、芝居や歌舞伎が清方にとっては身近なものでした。また明治33(1900)年創刊の演劇雑誌『歌舞伎』の挿絵を担当して、芝居のスケッチも連載したことは歌舞伎への理解を一層深め、衣装や背景に清方ならではの筆が冴える歌舞伎の演目を題材にした作品を生み出しました。神田に生まれた清方ですが、隅田川下流域一体の、所謂「東京下町」で育ちました。明治20年代の築地界隈の一日を描いた清方晩年の作《朝夕安居》(場面替)は、市井の人々の暮らしを丁寧に細やかに描き込んでいます。

この「東京の下町」が土地勘のない関西人にはなかなか理解し難いところです。

挿絵画家として出発した清方ですが、大正3(1913)年第8回文展で《墨田河舟遊》(全期間展示)が二等を受賞し、徐々に軸足を日本画の制作へと移し、画壇でも中堅作家となっていきました。

そのような時期に関東大震災が起こり、清方が知る江戸の面影を残す明治の東京の下町の姿は灰燼に帰すこととなり、時代は昭和に改元されました。この昭和2(1927)年帝展に出品されたのが《築地明石町》で、帝国美術院賞を受賞しました。3年後の昭和5(1930)年新富芸者を描いた《新富町》と二代目藤間勘右衛門が浜町に居を構えていたことに因み、踊りの稽古帰りの町娘を描いた《浜町河岸》を三部作としました。風景と人物が融合したこの三部作、昭和の初めでは見ることが出来なくなった隅田川沿いの風景を背景に、世代の違う三人の女性を描き分け、表情、着物の着こなし、髪形、履いている下駄と細部の細部まで単眼鏡で眺めても尽きることがないようで、きりりとして振り返る《築地明石町》のたたずまいに圧倒されながらも、ただただうっとりと見入ってしまいました。


4Fコレクション・ギャラリー展示 尾崎紅葉 原著 鏑木清方 画《金色夜叉絵巻》発行:明治45(1912)年  紙

「卓上芸術」展覧会で多くの観衆に見られる大画面の「会場芸術」や調度品として個人宅の床の間に飾られる「床の間芸術」に対して大正時代後半に清方が造り出した言葉で、ひとり机の上に広げて手元で楽しむ小画面の絵巻や画帖、色紙、短冊、挿絵などです。小画面に赴くままにサラサラと描きつけた作品が出来上がり、その一部は複製されて一般社会に供されることとなりました。年を取るにつれ、隅々まで息を詰めるような大画面の作画は体力的にも厳しく、卓上芸術作品は体力的にもちょうどよかったようです。


《墨田河舟遊》大正3(1914)年 絹本着色 東京国立近代美術館蔵

三部作の下絵など京都展だけの展示を含めて総展示件数は102件、東京展のチラシ裏面にある大谷コレクション「道成寺鷺娘」など7点は京都では残念ながら展示がありません。日本画ゆえ&人気の清方さんゆえに展示期間が限られ、展示替えが多く、作品リスト要チェックです。だいたい全部を見ようと思えば3回は必要かと。(~6/12、~7/4、会期末)展示替えとコロナ禍もあって1度に見られる作品数はそう多くないとお思いかもしれませんが、

大画面の美人画においては、隅から隅まで気を抜くところなく細やかに精緻に描き込み、市井の暮らしを描いた小画面の作品には、東京の下町で清方少年期の目に写ったものがこれもあれもと描き込まれており、単眼鏡を覗き込み、はたまた目を凝らして見入り、今回ばかりは「キャプション」を頼りに作品を読むように作品画面に入り込み、ちょうどいい展示件数ではないでしょうか。歌舞伎役者尾上松也さんの案内による音声ガイドもなかなか良かったです。コデックス装の分厚い図録は、どーーーんと重く持ち帰るのに難儀しましたが、パタンと開くのがありがたい。「鏑木清方の絵をすみずみまで味わうためのガイドブック」として書籍の紹介まで付いていてビックリです。

昭和5(1930)年ローマで開催された「日本美術展覧会」のために渡欧する金鈴社同人、平福百穂と松岡映丘を神戸埠頭で見送るために、大の列車嫌いであった清方は自動車を乗り継いで関西へやって来ました。京都では柊屋に滞在したそうです。京都画壇の面々は「このまま鏑木さんを京都に留めておきたい」と語ったそうで、図録の清方のお孫さんの寄稿文を読むにつけも、清方の人柄が偲ばれるエピソードです。この時清方を囲んだメンバーや清方と同時代の京都の日本画家の作品が上村松園の作品と共に4Fのコレクション展に展示されていますのでお見逃しなく。


4Fコレクション・ギャラリー展示《舞仕度》上村松園 大正3(1914)年 絹本着色

【開催概要】

  • 開催会場:京都国立近代美術館
  • 会 期:2022年5月27日(金)-7月10日(日)
  • 開館時間:午前9時30分~午後6時(金曜日は午後8時まで開館)*入館は閉館の30分前まで
  • 休 館 日:月曜日
  • 公式サイト⇒https://kiyokata2022.jp/


【参考】

  • 『没後50年 鏑木清方展』

毎日新聞社/NHK/NHKプロモーション/東京国立近代美術館/京都国立近代美術館 2022年4月

  • 『近代日本画の巨匠 鏑木清方展 生誕100年記念』京都新聞社 昭和52年9月
  • 『和樂 4・5月号2022』小学館
  • 『市井の文人 鏑木清方』塩川京子 大日本絵画 1991年



プロフィール

morinousagisan
阪神間在住。京都奈良辺りまで平日に出かけています。美術はまるで素人ですが、美術館へ出かけるのが大好きです。出かけた展覧会を出来るだけレポートしたいと思っております。
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