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記者発表「『展覧会 岡本太郎』本職?人間だ。」

岡本太郎《太陽の塔》1970年 万博記念公園にて2017年4月3日撮影

この夏2022年7月から「展覧会 岡本太郎」が大阪、東京、愛知に巡回します。

それに先立ち2月25日に東京都美術館にて開催館3館合同の記者発表会が開かれました。

オンライン参加で申込み、記者発表の動画を視聴して「展覧会 岡本太郎」についてここにご報告します。

尚、作品はすべてⒸ岡本太郎記念現代芸術振興財団

 

本展のポイントは3つ!

①   最初期から晩年までの代表作・重要作を網羅

岡本太郎作品のほぼすべてを所蔵する川崎市岡本太郎美術館岡本太郎記念館が主催者となって、全国の美術館からの出品作品が集まり、誰もがイメージする《太陽の塔》だけではない岡本太郎の全貌に迫ります。

②   最大規模の大回顧展として大阪、東京、愛知を巡回

大阪、愛知では初めての回顧展です。大阪中之島美術館で手にしたチラシには「史上最大のTARO展がやってくる!」巡回地ごとにその地と岡本太郎との関わりも紹介します。 

③   岡本芸術と人間・岡本太郎を展示会場の空間をとおして感知する体感型の展覧会

この第3のポイントは展示会場に実際足を踏み入れないと分からないかもしれませんが、このコンセプトで展示会場が出来上がっています。

「展覧会 岡本太郎」という展覧会名にご注目ください。多角的な展示から岡本太郎の「人間としての姿」に触れてください。


展覧会は、岡本太郎(1911-1996)の芸術人生にそって6章構成となっています。

第1章 “岡本太郎”誕生―パリ時代―

この章では、パリ滞在の10年を通して岡本太郎がどのようにして誕生したのかをこの時代の代表作《痛ましき腕》や《空間》などで追いながら探ります。

漫画家岡本一平と小説家岡本かの子の長男として誕生した岡本太郎は、育った環境も影響したのか、学校生活には馴染めなった少年のようで、何度も転校と退学を繰り返しました。入学した東京美術学校西洋画科も半年で中退してしまいます。18歳の時一家で渡欧し、太郎は単身パリに残ります。母かの子とはこれが今生の別れとなりました。

パリでは、パリ大学(ソルボンヌ大学)で美学だけでなく、社会学や哲学、さらには「ミュゼ・ド・ロム(人類博物館)」に魅せられマルセル・モースなどの著名な民族学者の講義を聴講して民族学も学んでいます。この時期ピカソの作品との衝撃的な出会いを経て、前衛芸術家やバタイユなどの思想家たちと交流を深め当時の最先端の芸術運動に身を投じます。

日本では学校教育に馴染めなかった太郎が、柔軟に様々なことに興味を持ち、多くのことを積極的に学び、ヒトとしても芸術家としても「岡本太郎」の基礎が形成された時期となりました。


第2章 創造の孤独―日本の文化を挑発する―

第二次世界大戦が始まり1940年にパリから帰国。出征、中国で俘虜生活の後1946年に復員。対立する要素が生み出す軋轢のエネルギーを提示する「対極主義」を提唱し、1948年には美術界の変革を目指した「夜の会」を結成する。1940~50年代に描かれた《夜の掟》や《重工業》などの代表作から前衛芸術家としてどのように運動をしてきたのかを振り返ります。岡本太郎激動の30代です。


第3章 人間の根源―呪力の魅力―

1951年東京国立博物館で縄文土器を観て衝撃を受けます。「縄文土器」を考古学資料の対象ではなく、その造形美に注目して日本美術の伝統に一石を投じます。日本文化を見つめなおそし自身のルーツを確認しようと、日本国内はもとより、韓国やメキシコまで民族学的取材旅行=フィールドワークに出かけました。取材先で太郎自身が撮影した写真や書のような筆遣いや呪術的世界感がのぞく絵画作品で60年代の作品群を展観します。


第4章 大衆の中の芸術

「芸術とは生活そのもの」太郎には生活のすべてが表現フィールドでした。「芸術は大衆のものである」と、太郎の表現は画廊や美術館から飛び出し、既成のジャンルも飛び越えて身の回りの様々なものへ展開します。都庁舎の壁画やパブリックアートから家具やテキスタイルまで太郎の旺盛な好奇心と柔軟な発想力を紹介します。


岡本太郎《太陽の塔》1970年 万博記念公園にて2017年4月3日撮影 

第5章 ふたつの太陽―《太陽の塔》と《明日の神話》―

《太陽の塔》は、太郎が1970年の大阪万博のテーマ館のプロデューサーの委嘱を受けて制作され、丹下健三のお祭り広場の水平の屋根をつき抜けて立っていました。同時期に構想が進行したのが《明日の神話》です。メキシコの実業家から依頼を受け「新築ホテルのロビーを飾るための壁画」として制作された全長が30mもある作品で、1954年の「第5福竜丸」事件から構想を得て制作されました。高さが約70mもある《太陽の塔》は今も万博記念公園に立ち、一方長く行方不明になっていた《明日の神話》は、今は東京渋谷駅に設置されています。岡本太郎の代表作の「ふたつの太陽」について太郎が残したドローイングや資料などからその現代的意味を考察します。


第6章 黒い眼の深淵―つき抜けた孤独―

本章ではあまり紹介されてこなかった太郎の晩年の作品を紹介します。反体制的な前衛芸術家として世に出た太郎ですが、万博後は数多くのテレビにも出演するようになり、誰もが知っている体制側の芸術家とみる人もあり、晩年は孤独の中で制作を続けました。しかし晩年まで創作意欲は衰えることがなく、晩年の作品はギロリとした黒い眼が特徴で、ブラックホールの様なある種呪術的な形を繰り返し描いています。太郎の没後は、長く秘書として太郎を支え養女となった岡本敏子の尽力もあって、今も多くの人が知る芸術家として存在しています。


「岡本太郎の魅力は何なのか」を本展通じて検証していきます。

ドリカムの歌の歌詞にも登場する「太陽の塔」、周りの環境は変化しても1970年から半世紀以上万博記念公園の地に立ち続けています。大阪では初めての大回顧展の開催となり、「芸術は爆発だ!」と叫んでいた印象だけでない「人間 岡本太郎」と出会える夏が待ち遠しい。


岡本太郎《午後の日》1967年 西宮市立大谷記念美術館にて2016年9月16日撮影

【開催概要】

 

★ 公式サイト:https://taro2022.jp


プロフィール

morinousagisan
阪神間在住。京都奈良辺りまで平日に出かけています。美術はまるで素人ですが、美術館へ出かけるのが大好きです。出かけた展覧会を出来るだけレポートしたいと思っております。
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